“流行り病”で2シーズン自粛を余儀なくされていた、お盆の先祖の墓参を兼ねた帰郷を、この時期に強行して来ました。

 

 遠出をすれば、何処かしら城跡を訪ねるのがルーティンになっている昨今ですが、今回訪れたのは百名城の備中松山城です。

 ちょっとベタな城ですけど、登城は小学校の遠足以来の事なので、いわゆる“知ってるつもり”の城のひとつだった訳です(^^;

今回は大人目線でジックリ観て歩き、“語れる城”にしたいと思います。

 

 

日本100名城 №68 備中松山城 岡山県 登城日2021.11.10

 

 

 別名     高梁城

 城郭構造   連郭式山城

 標高/比高  420m/350m

 天守         あり(複合式望楼型二重二階)

 築城年      仁治元年(1240)

 築城主      秋庭三郎重信

 主な城主    秋庭氏、三村氏、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏

 廃城年       明治7年(1874)

 残存遺構    現存天守、二重櫓、土塀、石垣、堀

 文化財指定 国の重要文化財(天守、二重櫓、土塀) 国の史跡

 所在地       岡山県高梁市内山下1

 

 

 

 近年は雲上に浮かぶ“天空の城”として売り出し中の備中松山城です。

観光地としてのイメージ作りは重要ですが、マニアが“城”として見た時、峻険な山城の完成形が建物を含めて現存し、復元・維持されている事がこの城の一番の“価値”と思います。

 

松山城は松山(通称:臥牛山)の細長い山上尾根に築かれた山城で、古城の大松山城と近世城郭に増強された小松山城に大別されます

 

誘導された山麓の城見橋P  平日は中腹のPまで乗り入れできる筈ですが、紅葉の時季は訪城者が多いので、ここからシャトルバスでの送迎です

 

中腹の鞴(ふいご)峠P キャパは14台でした

 

ここから600mは徒歩で登りますが、山城の登攀なので、距離以上に歯応えがあります(^^;

 

二ノ丸にある看板では、城の概略と歴代城主が判ります

 

 

 備中松山城の築城は鎌倉中期の仁治元年(1240)と古く、承久の乱に功のあった相模三浦一族の秋庭三郎重信が備中に地頭職を得て赴任し、大松山の山頂に築城したのが始まりとされます。

 秋庭氏が5代続いた後の鎌倉末期には、領主は備後三好一族の高橋宗康となります。

宗康は城を小松山まで拡張し、備中国を代表する城郭としました。

 

 建武の争乱を経て室町時代に入ると、守護は高師秀となりますが、観応の擾乱やその後の足利直冬の乱の混乱で、尊氏に敵対した師秀は城代となっていた秋庭三郎重明によって追放されます。

 備中守護代になった秋庭氏は松山城主に帰り咲き、以後戦国初期の永正6年(1509)までの間5代で城を守っています。

 

訪城者の多い城なので、登城路はよく整備されています

 

中間地点にある中太鼓櫓跡は本格的な石塁遺構で、名に反して防御の出丸機能だった事が判ります

 

壇上には本瓦の破片が散乱しており、櫓建物が有った事を伺わせます  前方の小山は下太鼓ノ丸跡

 

主郭の手前の尾根道は、御約束の堀切&土橋に…

 

土橋を渡ると、急な斜面の上に土塀が見えて来ます

 

 

 戦国時代になると備中に割拠する国人達は、備中統一を目指して近隣の大勢力とも連携して激しく争う様になります。

その達成基準として目指したのは、国の中心地である松山城の奪取でした。

 

 永正6年(1509)、将軍:足利義稙は管領:細川氏との抗争で、備中国制覇のため一族で幕臣の上野信孝に攻めさせます。

平定に成功した信孝は松山城に子の頼久を入れて支配させましたが、その子の頼氏の代になった天文2年(1533)には備中南部の猿掛城主:庄為資に攻められ落城します。

 

 その庄氏も次の高資の代になった永禄4年(1564)には、小早川氏の援軍を得た西隣の鶴首城主:三村家親に攻められて奪取されました。

 永禄10年(1567)、三村氏が岡山の宇喜多直家と戦って大敗すると、宇喜多氏に加勢された庄高資が松山城を一時奪回するのですが、元亀2年(1571)には毛利氏に加勢された三村元親に再び奪われてしまいます。


右手から回り込む様に登って行くと、主郭の石塁群が見えて来ました 一気にテンションが上がります(^^;

 

二の平、三の丸、厩曲輪と重なる迫力の石垣

 

この石垣の東側は天然の岩盤に載っていて、この城の大きな見どころのひとつですが、近年の木の根の侵蝕で崩落の懸念があるそうです

 

角度を変えて大手門内から見ると、切込み接ぎの人工美と調和して良い感じです

 

さらに、二の平櫓台の奥から見ると、さらに上へと重なる石塁群が一望でき、この急峻な山上にして凄まじい工事量と技術だった事が判ります

 

 

 元親は備中の過半を統一して国持大名直前でしたが、天正2年(1574)、毛利氏が宇喜多氏と和睦すると、それに反発して織田信長と結んだので、両氏から激しく攻められる事となり、籠城するも及ばず翌年に元親は降伏自刃し、松山城は毛利輝元の持ち城となりました。

城代としては天野氏、桂氏の名が見えます。

 

 慶長5年(1600)、関ヶ原で敗者とされた毛利氏は防長二国に減封され、備中は一旦徳川氏の直轄領となります。

国奉行として派遣されて来たのは小堀政次で、松山城に入り1万石を給されて、備中全域の管理にあたりました。

 政次の跡を継いだ政一は、遠江守を名乗る(小堀遠州)築城・作庭のスペシャリストであり、松山城の修築や根小屋の築造などに腕を振るいました。

 

三の丸南側の土塀は現存土塀で重文です 大河『真田丸』のタイトルバックにも使われていましたね

 

斜面上に有りながら、狭間は中空に向けて切ってあり、平和な時代に装飾として造られたモノの様です

 

三の丸は広さと通路幅から、武者溜りだったと思われます

 

ちょうど現在の城主“さんじゅうろう君”が訪れた足軽たちを謁見していました(^^;  意外に凛々しい眼つきと佇まいです

 

石積みは野面も併用されていて、“戦国”の匂いを感じますね

 

 

 大坂の陣が終わった元和3年(1617)、鳥取から池田長幸が6万5千石で備中松山に移封して来ます。 この池田家は輝政の弟の長吉の家系ですね。

長幸は新田開発や城下町の整備に取り組みましたが、跡を継いだ長常が寛永18年(1641)に嗣子なく死去すると無嗣改易となり、備中松山藩領は福山藩主:水野勝俊が預かります。

 

 翌寛永19年に正式に備中松山に封ぜられたのは水谷(みずのや)勝隆で、5万石での成羽藩からの移封でした。

 水谷氏は3代30年にわたり備中松山藩主として統治しましたが、松山城が現在に残る様に近世城郭として生まれ変わったのは、この水谷氏の治世であると言われており、2代目:勝宗の治世下で天守が建ち、天和3年(1683)に根小屋の御殿が竣工したそうです。

 

詰めの城にしては“見せ城”の要素を感じさせる広い登城路 築城主の意志の顕れか…

 

四の平櫓台 見通しはあまり利きませんが紅葉が盛りでした

 

その裏手、二ノ丸高石垣の入隅には崩落防止の巻石垣?が…

 

二の丸鉄門の前から見下ろす厩曲輪の土塀 岩盤に載っている最上部の土塀です

 

鉄門を入ると二の丸です 本丸の建物群が見えて来ました

 

 

 ここまでは高梁市のホームページの文を元に書いて来て、ここからは個人の考察になるのですが、水谷氏単独での改修には極めて大きな疑問が残ります。

 

①目的の無い強化改修は可能だったか?

 徳川幕府は3代家光の治世、島原の乱も収まり近隣に争いの火種は無く、城の大々的な 強化は必然性が無いし、幕府の方針にも反するものです。

 

②資金は有ったか?

 峻険な山上にこれだけの石の城を築くには莫大な出費を要します。

 豊臣秀長(100万石)の高取城は納得できても、幕府の財政出動が無ければ、5万石の水谷氏には到底賄えないでしょう。

 

③水谷氏に技術力は有ったか?

 水谷氏とは、元は常陸結城氏の重臣の家で、小田原の役の戦功で独立し、下館城(土の 平城)を築城し長く居城にしていました。

 備中成羽藩での3年間は前任の山崎泰治が誂えた陣屋住まいであり、つまり高度な石積 み技術とは無縁な大名だったのです。

 

平成になってから、平櫓2基と門、土塀などが復元整備され、現存天守と相俟って“ホンモノ”感の強い存在感を放っています

 

一番広い二の丸には建物は無く、見どころとなるのはこの2基の“雪隠跡”  ここに溜められた糞尿は硝石の原料にもなるし、石垣に取り付いた敵兵には厄介で強力な武器にもなりますね(^^;

 

本丸に登って行きます ここからは有料エリアで\500取られます

 

現存12天守のひとつ 入口のある左側は付け櫓なので、二重の最小天守ですが、唐破風が効いていて堂々とした存在感のある天守です

 

 

 以上の事を踏まえると、高橋氏が小松山に城域を拡げて以来、歴代の城主が改修を加え、徐々に積み上げて行ったもので、特に1600年からの幕府代官:小堀氏と名族:池田氏の40年間が大きく、この間に石垣普請の大半が完成し、最後に水谷氏が天守や殿舎の作事を担った…と見る方が理に適っている様に思われるのですが、さて如何なものでしょうか?

 

次は天守内に入って行きます。

 

《中》へつづく