熊野古道歩き、今回歩いた後半の新鹿(あたしか)~波田須(はだす)です。

 

 

 

 新鹿もこの地域の浦々と同様に、半農半漁の寒村ですが、比較的広い耕地が造れるので、住民も多く、この地域の中心的な集落でした。

 しかし熊野灘沖合の海底には“南海トラフ”と呼ばれる断層があり、ほぼ百年周期で地震と津波に襲われ続けた地でもあります。

 

 新鹿の海岸には約600mにわたり白砂の砂浜が広がる事から、三重県でも指折りの海水浴場になっていて、環境省の快水浴場百選にも選ばれています。

 私も40数年前の若い頃に、草野球のメンバーでキャンプ(遊びが99%)を張った事がありますが、その頃に比べると民宿の数も少なくなって、ずいぶん静かになっていました…。

 

国道まで出ると、海岸が目前なので、懐かしい浜に寄って行きます

 

国道脇に建つ東南海地震の記碑

昭和19年12月の地震はM8.5で、津波で百数十戸の家が流され、16名が犠牲になった…とあります

 

外海に面しており、過疎地域で排水の流入も少なく、水質は三重県下一だそうです

 

調子こいて100mくらい沖に出て、戻ろうとしたらちょうど引き波で、苦労した事を思い出しました(^^;

 

 

 新鹿から、ちょっとした峠を越えて波田須(はだす)へと向かいます。

その昔は、峠には茶屋があって、軒先に松の大木があり、その下で西行法師(佐藤義清)が説法をした事から、『西行松』と呼ばれていました。

 西行は日本全国を行脚し、多くの歌が遺されていますが、晩年に伊勢二見浦に庵を結んで、数年間暮らしたといいますから、その頃の事でしょうね。

だとすれば、我々が辿って来た同じ道を、同じ景色を見ながら西行も歩いた訳ですね。

凄い!(^^; そんな事を思うのも、また街道歩きの醍醐味です。

 

熊野古道はまた山に向かい、峠を越えて波田須へと至ります

 

道沿いに紀勢線が走り、トンネルがありました。 此処から出て来る電車の画が欲しかったけど、シャッターチャンスは1時間55分後になります…残念(^^;

 

先を急いで国道に出ました。 古道はトンネルの手前から左手を山に登って行きますが、トンネルの真上20mあたりがもう峠でした。

 

西行松は看板のみで、もう有りません。

 

 

 峠を越えるとすぐに集落が有り、古道は民家の間を縫って進みます。

つまり、熊野古道が普段の生活道路として使われている訳で、なんだかホッとする様なアットホームな区間でした。

 

 集落を抜けて波田須神社までの道は、打って変わって熊野古道でも最古の状態を保っている…と言われる“文化財”の道で、鎌倉時代からこのまま…と言われています。

熊野速玉大社は、源頼朝から多額の寄進を受けて整備されていますから、この道もそうか?

 

ここは普段農作業等に使われている道が古道です。歩きやすい(^^)

 

鎌倉時代の道 長い年月、無数の巡礼者の足で摩耗し丸くなった石は、まさに文化財です。

 

頼朝が寄進した石仏か? 知らんけど…。

 

そういえば、鎌倉七口には、こんな石畳は無かったなぁ…。

 

波田須神社 ただの村社みたいです。

 

 

 波田須神社から見下ろす集落の海岸は、“徐福”が漂着した場所との伝承が有り、徐福の墓と神社が祀られています。

『徐福? 何それ? 美味しいの?』と言う人が居るかも知れないので、簡単に記しますね。

 

 時は紀元前210年、中国は秦の時代。

宮廷に仕える方士(占い師?)の徐福は始皇帝から『東方の島にある不老不死の薬を取って来るだに』…と命令されます。

 そんなもん、有る訳無いがや! とは言えない徐福は、手ぶらで戻った後の事を思い、一族こぞって船に乗せ、東に向けて出航しました。

しかし、途中で嵐に遭った船は大破し、漂流しながらボロボロの状態で流れ着いたのがこの紀州波田須の浜だったのです。

 

波田須の浜 中央の大木があるのが“徐福ノ宮”です。

 

社殿と墓碑 ご神体は徐福が持って来た擂鉢だそうですが、見当たりません。

 

波田須の浜はほぼ磯でした。

裸足で近付いて来た弥生人を見た徐福が『あっ、はだすだ!』と言ったとか言わないとか…(^^;

 

 

 その頃の日本はと言えば、まだ卑弥呼も居ない弥生時代の終盤。

それでも民族の気質なのか、弥生人の“おもてなし”を受けた徐福はすっかり回復し、お礼にと秦の進んだ技術で優れた農耕や工芸の技を伝授しました。

波田須では窯を作り、主に陶器造りを伝えた様ですね。

 これに驚いた弥生人に徐福は神と崇められ、そのまま幸せに日本で暮らしましたとさ。

そして、その死後も今日までこうして供養・崇拝され続けているのです。

 

 


徐福伝説は日本各地だけでなく、朝鮮半島まで広く語り継がれている様です。

(朝鮮では、日本人がジープで強制連行した…となってるかも?)

 

 波田須への漂着は説のひとつに過ぎず、候補地が広く分布してるという事は、“徐福”を名乗る多くの人が、同様に技術を伝授した…のでしょうね。

 いずれにしてもその事は、日本の技術革新に多大な貢献をし、“匠の技”の礎になったのかも知れませんね。

 

 

 徐福ノ宮を出る頃には、電車の時間も間近になったので、波田須駅から帰ります。

 

地元の方に教えてもらった駅への小径。 この道がなんとそのままホームに繋がっていました。 超ローカル駅あるある(^^;

 

 

おわり