緊急事態宣言が解けた10月2日、半年ぶりに熊野古道に帰って来ました。

尾鷲を過ぎ、八鬼山の難所を越えてもなお、なかなか熊野に届きませんが、今回は二木島から波田須の間10kmを歩きました。

最後の七里御浜を目前に、険しい峠道ももう大詰めです。

 

 

 二木島浦が良港で、中世から中継港として栄えた事は前回書きました。

近年には中上健次氏の『火まつり』の舞台に取り上げられたりしましたが、物流の主体が陸上に変わり、フィーダー輸送が廃れた今日、二木島の退廃・過疎化も例外では有りません。

 最盛期の1960年代には400人を超えた小学校の児童数が、2011年の廃校時には6人だったと言いますから、急激かつ深刻な過疎化ですね。

 

 

二木島漁港 二木島駅に車を停め、ここからスタートです。

 

漁師町特有の路地を通って北側の山手に登っていきます

 

民家の玄関先を抜けて行く熊野古道 地元の方の話を聞ける絶好のシチュエーションですが、住民の姿はありません…。

 

見下ろす三木浦 海沿いに多数の民家がありますが、ほとんどが空き家の様ですね。

 

 

 耕地は殆ど無い海辺なので、主要な産業は漁業と林業なのですが、一次産業で若者の流出を食い止めるには無理がありそうですね。

 ただ鉄道駅があり、国道も新しいトンネルが掘られて拡幅され、交通インフラは良くなっているので、新たな取り組みは出来そうな気もします。

 

 

古道に唯一遺る一里塚とキリシタン灯篭

熊野道は幾度となくルート変更された為、里程標として機能しなくなった一理塚は廃れたそうです。

江戸初期、二木島には弾圧を逃れたキリシタンが移り住んだとも…。

 

纏めて供養された殉難者の墓7基 こちらは熊野詣の行き倒れ者です

 

山の中腹を走る国道311に出て少し歩きます。

 

すぐに右手に古道に入る分岐がありますが…

 

これは… 彦根城天守並みに急な階段です(^-^;

 

ここから山間の峠越えですが…居る様ですね。(この日も撃退スプレーは携行してます)

 

 

 温暖な気候と風光明媚で豊かな自然がありますから、民家の立地などはまさに南伊豆の高級別荘地です。

 空き家を軽く改装して、高い家賃と税金に苦しむ都会の年金生活者を受け入れたら、医療・介護系の若者も増えるし、シルバー層による活性化と併せて、広く心と身体の健康増進に役立つのではないかな?

…と、老爺心ながらそんな事も思いつつ歩いて行きます(^^;

 

山神か野仏…と思いましたが、これも巡礼者の供養塔だそうです

 

坂は急になって来ましたが、石畳は歩きやすいキレイな状態です

 

これは…良い意味で予想を裏切られました(^^;

 

お陰で、余力を残して二木島峠に到着です

 

 

 二木島峠までの登り坂は本格的な長い登攀道としては最後になるので、“苦難を楽しむ”つもりで挑みましたが、かつて無いほど石畳の状態が良くて、さほど苦しまずに登る事ができました。

この区間が整備されたのは江戸中期の事で、紀州藩主時代の徳川吉宗の施工だそうです。

吉宗さん、悪人退治の他にも良い仕事してますね。

 

峠を越えると、道はほぼ平坦な下り基調になります。

 

下りきった沢沿いには、人の生活痕が…。 どうやら水田の跡らしい。

 

二木島から移った庄五郎さんが建てたと伝わる地蔵さま

 

逢神坂峠で昼食休憩 林間で見通しは利きませんが…。

 

 

 山深い高地の沢で水田を営んだ庄五郎さんは、嘉永5年(1852)の津波の被災者で、おそらく二木島の水田が潮を被ったため、やむなく僅かな平地と水の有るこの地を開墾して、稲作を続けたのでしょうね。

塩害が緩和される数年の事だったのでしょうが、放棄された水田が幾らでも有る現代では考えられない、極限の日本人の戦いの跡でもあります。

 

ここからは新鹿の海辺まで、300mの標高差を1.5㎞で一気に下ります。

 

緩斜面では苔むした“緑の絨毯”の道が気持ち良いのですが…

 

苔むした石段の下りほど厄介な道はありません(^^;

 

『登りが楽だった分、これでチャラかぁ…』とボヤキが入り始めた頃、新鹿の浜が見えて来ました。

 

民家の横へ、最後の急な下りはより慎重に…

 

下りきった所に道標が あと34㎞でゴールです♪

 

 逢神坂は別名:狼坂でもあった様です。

下って来た坂は熊野古道でも特に出没が多かった様ですね。

ニホンオオカミが最後まで生息していたのも紀伊山地ですし、沢山居たのでしょう。

巡礼者はクマよけに鈴を鳴らすのが常ですが、肉食獣のオオカミには逆効果…(^^;

しかも群れで狩るのが彼らの習性ですから、難儀な事です。

クマ除けスプレーが無かった当時、出遭ったら戦うしか無かったでしょうから、まさに命懸けの巡礼行ですね。

 

 

つづく

 

 

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 昨夜のNHK-BS『英雄たちの選択』では信玄の西上作戦を取り上げていました。

しかも、なんと侵攻経路は駿河からだった…という新説でしたから、自身でも調べて投稿した経緯があるので、真剣に観ていましたが、酷いもんでしたね。

 可能性として新説を語るだけで、定説を否定できる根拠が何ひとつ示されてません。

駿河から入ったなら東遠江の城を落とすだろうし、“信玄が通った”伝承も残るはず。

北遠江の国人達が寝返り、勝頼の代も徳川に帰順しなかった事実をどう説明するのか?

最後には、信長包囲網を三方ヶ原後の信玄の思い付き…みたいに言うし、もうムチャクチャですわ(^^;

 番組上、定説を覆す新説!の方がセンセーショナルでしょうが、裏付けは曖昧でも人気のある歴史家がTVでそう言う事で、無知な視聴者がそれを信じてしまえば、それが歴史になる…といった、“従軍慰安婦”みたいなプロパガンダ感が透けて見え、日本史のピンチを感じました。

 ちょっと大袈裟かも知れませんが、番組がバラエティー化してるのは明白で、磯田さんや、武田氏に詳しい平山さんも出てたものの、杉浦アナ含めさすがに今回ばかりは、歯切れが悪かった(^^;

以前の様に、自身の専門性から日本史の真実を探って行く番組に戻って欲しいものです。