長島中学校の敷地内の通路にお邪魔して西に向かいます。

校内ですが、この日は土曜日だし、今は授業もリモートだから、人気もなく閑散としています。

 

堀の北岸と思しき通路 微妙に右カーブして、それらしいのですが…

 

この絵図を頼りに堀跡を目安にグルリ歩いてみます

 

 

 北側の堀兼水路はもう現存しませんが、堀幅十六間(30m)なので、この通路が堀の北岸にあたる様です。

しかし校舎が建っている現状からして、大幅に更地に改変されたのは明白で、城の痕跡は何一つありませんでした。

 

 郭内も本丸と二ノ丸(?)間には四間半(8m)幅の水堀が南北に掘られ、二ノ丸には役所や庭園(植込み)が有った様ですが、すべて学校の敷地ですね。

 戌亥の角には外郭と本丸を繋ぐ複雑な形状の土橋があり、裏門が置かれていましたが、これらも位置確認すら困難です。

 

堀底跡は地盤が緩いので、この空間が内堀か? とも思うのですが…

 

学校の西側は田圃と住宅で真っ平らです(^^;

 

 

 もともと真っ平らな平地に堀を穿ち、掘った土砂で土塁を積み上げた平城ですから、土塁を崩して堀を埋めれば簡単に元の平地に戻る訳です。

跡地の主な活用が当初は水路を走らせた水田だった様ですから、もう見事に真っ平らですね。

 その代わり…と言っては語弊がありますが、長島中学の校舎は城郭風の意匠ですね(^^;

 

城跡である事を一番を偲ばせるのは、長島中学の校舎かも

 

半ばこじ付けで見つけた不自然な土盛り 土塁痕か?と思ったけど、地図に重ねると堀のど真ん中でした(^^;

 

小学校のプールと遊具があるエリアは、グランド面から少し低くなって堀跡感がありました

 

 

 校庭に沿って西側から南側へと廻ります。

西堀は幅四十間(73m)、南堀は四十四間半(81m)と記されていますから、このクラスの城では異例の堀幅ですね。

水にだけは不自由しない輪中ならではの構えです。

ただ、水深は二尺六寸(78㎝)と浅いので、泥田の様な状態だったのでしょう。

 

 

 何も収穫が無いまま、一周して大手のエリアに戻って来ました。

 

最後に一縷の望みを掛けて、このエリアを散策します

 

 大手のエリアは宅地化が進んでいますが、廃城と同時か早いうちに耕地化を経ず宅地化された様で、地形にメリハリがあって期待が膨らみます(^^)

 

外堀のEND部の堤跡かも?

 

家老屋敷&大手外枡形跡と思われる田圃から大手門跡方面を見る

 

ここにあった大手門の高麗門は、城下の蓮正寺に移築されています

 

大手門内の武者溜りは公園化されていますが、観音像のある高台は櫓台かも知れません

 

 大手門外の『下屋敷』と記された場所も、西半分が稲荷社となって遺っています。

池の有る庭があった様なので、賓館か会所の役割の屋敷だったのでしょうね。

 

城跡を伝えるのは、この榎の大木のみ

 

近代の戦いの慰霊碑もありました

 

最後に、徘徊した結果の縄張りを現代の写真にプロットしてみます。

 

 

 限られた情報ですから、正確な図とは言えませんが、絵図の数値通りに置いて行ったら絵図よりも異様に堀の広い水城になりました(^^;

 ただ、この城での戦いは、一向一揆が最大のものですから、未曽有の損害をもたらした銃撃戦を前提とした縄張りがいち早く採用されたとしても、不思議ではありませんね。

 

 その長島一向一揆ですが、今回はその戦跡も併せて廻りましたので、引き続き投稿して行きます。