この冬は例年以上に寒さが厳しいですね。

比較的温暖な地域とされる三重県中部ですが、クルマの温度計での計測ながら、先日は自宅付近でもー4℃という考えられない冷え込みの日がありました。

そのせいか、鉢植えの花たちに“しもやけ症状”ぽい被害が続出して困っています。

 

冬の玄関脇を彩ってくれてるシャコバサボテンがグッタリ、春の開花に向け冬眠中のベラルゴニウムも…(*_*)

温室に入れとくべきでした。

 

 

さて、奥三河の城めぐり、今回が最終回で鈴木氏の本拠:足助城を紹介します。

 

 

 

三河の城 足助城  愛知県  登城日:2020.10.27

 

 

 別名      真弓山城、松山城

 城郭構造    山城

 標高/比高   307m/170m

 築城主     鈴木忠親

 築城年     興国~正平年間(15世紀中頃)か?

 主な城主     足助鈴木氏5代、下条信氏

 廃城年     天正18年(1590)

 遺構       土塁、曲輪、空掘など

 再建造物    櫓、長屋、井楼、木柵、木橋

 史跡指定   なし

 所在地    愛知県豊田市足助町須沢39-2

 

 

 三河国加茂郡足助庄は矢作川支流の巴川中流にあり、信州伊那へと繋がる三州街道(塩の道)の宿場として古くから栄えていました。

平地の殆ど無い深い谷間の宿場町ながら、『香嵐渓』という紅葉の名所があって、近年も秋にはとても賑わう町です。

 

旧足助町役場から見た足助城

 

登城の前に、市街にある歴史民俗資料館へ 何かの建物の活用みたいで、レトロな良い感じですね

 

ここのイチオシは足助重範みたい 後醍醐帝に殉じた忠臣です

 

 

 平安時代末期、尾張源氏:浦野氏の浦野重長は庄司として足助に移り住み、足助重長を名乗りました。

 鎌倉時代になって、御家人となった重長は娘を2代将軍:頼家に嫁がせ、その娘が公暁を産むなど、将軍家との結びつきを深くしています。

 重長は巴川沿いの独立丘に飯盛山城を築いて本拠とし、周辺に幾つかの支城も構え(足助七館)、一族の者を入れて繁栄して行った様です。

 しかし源家が途絶えて北条氏が実権を握ると足助氏は、同じ弱小土豪ながら将軍の妻を出しただけで武士の頂点に君臨する北条氏に我慢がならず、次第に反幕へと舵を切り、承久の乱では一部が朝廷側で戦いました。

 

立体模型は建物の復元状態を顕しています

 

展示は城址の発掘調査結果をもとに、足助氏~鈴木氏の足取りが解る様になっています

 

さて、城山(真弓山)に登ってきて城内に突入です

 

木戸銭300円を払って、この木戸門から入って行きます

 

 

 武家政権の正統性に疑問を感じた時、道標となるのはやはり“尊皇”…な様です。

 

そして後醍醐天皇が討幕の狼煙を上げると、7代当主の重範はいち早く笠置山へ駆け付けて幕府軍と戦い、敗戦し処刑されています。

 続いて起こった元弘の乱でも、足助氏は新田義貞軍に入って戦い、多くの戦死者を出したので、一族はすっかり衰退したと言われます。

 室町期に入って8代当主の重政も、この流れで南朝方に与して戦い、興国年間(1340~46)には足助を捨て宗良親王に随身して東国に去って行きました。

 

さっそく目の前に現れたのは南の丸の高土塁で、復元建物があります

土塁の修理痕が目につきますが、復元整備後に集中豪雨で崩落したのだそうです

当時にも有った事でしょうが…、旧態復元は有難い事ですが、メンテナンスが大きな課題ですね

 

西ノ丸 南の丸へは西ノ丸を経由して登って行きます 頑強な木柵が復元されています

 

西の丸にある物見櫓 屋根が茅葺きですね

 

忠実に掘立柱で復元されていますが、柱の根腐れが進み耐用が厳しくなっているそうです

 

 

 次に足助を支配したのは三河鈴木氏の鈴木忠親でした。

三河鈴木氏は源平合戦を義経の元で戦った熊野鈴木氏の一族で、後に頼朝に追われた義経に与力すべく平泉に向かった鈴木重善が、三河で足を患い断念して賀茂郡高橋庄矢並に土着したのが始まりの氏族でした。

 

 足助氏の去った足助に進出した鈴木忠親は、旧領の高橋庄に加えて賀茂郡一帯を支配する事になるのですが、一説には忠親は足助氏と深い縁戚にあり、移譲されたので周囲からもスンナリ支配が認められた…のだそうです。

 

西の丸から南ノ丸への道沿いは樹木に覆われて、いつもの城歩きの景観

 

南ノ丸の虎口ですが… なんと跳ね上げ門。 実物は初めて見ました(^^;

 

竈のある小屋掛け 南の丸は厨の機能だった様ですね

 

調理場の横には兵舎の小屋も2棟建っています 奥の段には本丸虎口の井楼も見えています

 

 

 忠親は手狭な飯盛山城ではなく、指呼の真弓山の古城を大改造して居城としましたが、それが今回の足助城です。

 鈴木氏もまた、足助城を中心に支城群を構築し(足助七城)、一族の者を置いて統治し、以後5代にわたり国人領主として室町~戦国の世を生きて行くのです。

 

 2代重政の時の大永5年(1525)、南隣で勢力を拡げた松平清康が大軍で足助城に占め寄せて来ます。

和睦交渉で清康の妹:久子が重政の嫡子:重直に嫁す事が決まり、鈴木氏は松平氏の傘下に属する事になりました。

 余勢を駆った清康は東三河にも攻め込むと、牧野、戸田氏を降し瞬く間に三河を統一してしまいます。

 天文4年(1535)、次は尾張へと矛を向けた清康でしたが、尾張守山で織田信秀と対峙していた陣中で、家臣の阿部信豊に殺害されてしまいます(守山崩れ)。

 

調理小屋に比べシッカリした造りなので、常住と間違えてしまいそうですが、あくまでも詰め城なので、簡素な造りだった事でしょう

 

現代人でも住めそう(^-^;

 

本丸の手前にある物見台 井楼には登れません

 

見下ろす兵舎 板葺き屋根の上の石は、ここでまとまって出土したもので、鈴木康重は破城する際には、キチンと仕分けして去って行った様ですね

 

 

 思わぬ当主の急死で撤退した松平勢でしたが、これを機に傘下の国人衆は自立を指向し、鈴木重直も織田氏の後援もあって、妻:久子を離縁して自立を果たしました。

 

 天文23年(1554)、三河に攻め込み松平氏を傘下に収めた今川義元は、足助にも大軍を送って来ます。

 重直は堪らず、降伏して今川の軍門に降っていますが、義元が桶狭間に斃れると、今度は今川を離れた松平元康が攻め込んで来て、重直は嫡子:信重を人質に差し出し、再び松平傘下に戻りました。

 

 元亀2年(1571)、今度は武田信玄が伊那から来襲し、奥三河一帯を蹂躙します。

信直は圧倒的戦力差に抗戦を諦め、岡崎城に退避しましたが、足助城には武田家臣の下条信氏が駐留し、一年半にわたり占拠されてしまいます。

 信玄は翌元亀3年末にも来襲し、松平元康改め徳川家康の本拠地遠江を蹂躙しますが、翌年春には病没し、甲斐に撤退して行きました。

 

本丸には天守風の大櫓があり、ここは内部が見学できます

 

観るとこはそこかい!!

厠はこれひとつなので、籠城時には殿様と重臣以外は野〇〇だった?

 

 すると、被害甚大の家康に代わり松平信康が素早く動き、岡崎衆を総動員して武田勢を追い払い、奥三河の領地を回復します。

足助城も無事取返し、信康は城主に鈴木重直を復帰させました。

 この恩に報いるべく、当主の鈴木信重は天正8年(1580)の高天神城攻めでは奮戦し、最大数の首級を挙げたそうです。

 喜んだ家康は、武田滅亡後の天正12年には信重に美濃国で土岐、恵那2郡(5万3千石)を与える約束をしましたが、この時の当該地は秀吉配下の森長可、川尻秀長の領地です(^^;

 

 こうして、家康の直臣武将としての地位を確立したかに見えた鈴木氏でしたが、天正18年(1590)、小田原征伐が終わると徳川家康の関東移封に従って移る事になりました。

 鈴木氏5代目当主となった康重は、居城の足助城を自ら破却し、廃城とした上で従ったと言います。

 

大櫓二階からの景色 西側(岡崎方面)は民家も多く拓けています  左端の小山が飯盛山で、足助氏の居城でした

 

東側(信濃方面)は山が深くなって行きます

 

全山急斜面で、尾根筋には段々に腰曲輪を配した、中世の山城らしい山城です

 

 

 新天地での未来に希望を抱いて、足助の地を後にした事でしょうが、江戸に着いた直後に康重は突如出奔し、行方知れずとなってしまいました。

 その理由については確かではありませんが、家康から上総大多喜10万石に加増された『本多忠勝の家臣になる』様に言い渡されたため…と言われます。

 

 市場城の鱸氏にも似た結末ですが、紆余曲折は有ったにせよ、一城の主として戦国の世を生き抜いた国人領主のプライドというものでしょうかね。