さて今回訪ねる城址は…
これは中部地方、静岡県かな?
おーっ! しかも随分と山の方ですね
ありました! 人里離れた森の中に城らしい建物が見えます
それでは、ここへ行って見ましょ~う(ブラタモの剛風に)
天竜川の支流:水窪川が流れるこの谷はR152が走っています 中央構造線(諏訪~豊橋)の東の断層で、立体地図で見ると真直ぐな谷間が100kmほど続いています
まず最寄りの集落で情報を集めます
橋詰めにある『みさくぼ路の里』という店に入って話を聞いてみましょう
*ここが高根城の案内所を兼ねていてパンフが貰えます
どうやら、高根城という城で、今はもう誰も住んでなくて、時々掃除の人が登るだけだそうです
… もうエエって(^^;
遠江の城 高根城 静岡県 登城日:2020.10.28
別名 久頭合城、久頭郷城
城郭構造 山城
標高/比高 420m/150m
築城主 奥山金吾正定則
築城年 応永21年(1414)
主な改修者 武田信玄
主な城主 奥山氏
廃城年 1580年頃
遺構 曲輪、堀切
指定文化財 市指定史跡
所在地 静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方
浜松市水窪地区(旧:磐田郡水窪町)は遠州から伊奈へ抜ける秋葉街道にある山間の町です。
この街道は古来から“塩街道”として人の往来があり、水窪も宿場として栄えました。
室町時代の北遠の山間部は奥山氏が治めており、奥山金吾正定則のとき尹良親王を迎えるにあたり築城したのが、高根城だと言われています。
さぁ~行きましょう♪(五味やすたか風) 軽トラおじさんの先導はありませんが、細い坂道を登って行きます
…と、すぐに有る専用駐車場。 まだ比高は20mしか登ってない。 と、言う事は…
そう、残る130mは徒歩で登るのです(^^; 幸い道は綺麗になってます
尹良親王とは、後醍醐天皇の第四皇子:宗良親王の皇子ですから孫にあたる訳ですね。
三河から遠江にかけての山間部は南朝勢力の強い所で、劣勢になってからは主要な抵抗拠点でもありました。
ただし、尹良親王が水窪に居た確証は無く、城の出自は微妙な様です。
20分ほど登ったら、林間から土塀が見えて来ました と~ちゃこ!
大手門は礎石が遺り、上に薬医門で復元されています
門前から見下ろす城下(水窪) 意外と言っちゃ失礼ですが、家が密集しています(^^;
門内を覗くと、復元建物が続いています。 あっ、係員は無人で入場無料、パンフ類もありません
(厠は駐車場にあるのみ)
戦国時代になると、奥山氏は今川氏の配下として街道を守っていましたが、今川氏滅亡後は徳川氏に従ったものと思われます。
しかし永禄12年(1569)、奥山民部少輔貞益の時に南信濃の遠山景直に攻められて落城し、
奥山氏は滅びました。
遠山景直は武田氏に従属していて、そのまま高根城を管理し、改修を加えたそうですから、
自身の領地拡大ではなく信玄の命による侵攻だった様ですね。
白木の板葺き建物が3つ、本曲輪は木柵で二つに仕切られています
板屋根は4枚重ねの高級仕様ですから、雨が漏る事はないでしょう
主屋の格子には南蛮渡来のギヤマンが…
物見の井楼櫓 建物は係員が居る特別な時でないと公開しないみたいですね
土塀…ではなく、塗り壁塀ですね
元亀3年(1572)の西上作戦での信玄本隊は、高遠城から青崩峠を越え、秋葉街道を南下して遠江に侵攻しています。
この高根城でも宿泊し、以後の兵站基地および番城にもなりましたが、天正3年(1575)、武田勝頼が長篠で敗れるとこの城は放棄され、廃城となったそうですから、現在の姿はその武田時代の復元と見て良いでしょうね。
本曲輪の西には小さな曲輪が3つ、連郭でつながります
搦手門は掘立柱の四脚門…というのかな?
連続堀切で防御力UPさせてます
堀は歩くのも困難な薬研堀。殆どの城址では堆積物で埋まった堀しか見れないので、効用を体感する上で貴重です
現在の城址の姿ですが、昭和の末に発掘調査が行われて全貌が明らかになり、幾つかの建物や土塀、木柵などが復元されて、戦国期の戦時体制での城砦の姿が判る様に展示されています。
ところでこの城って、どっかで観た記憶がありませんか?
そう、『女城主 直虎』で井伊谷城としてロケに使われたのがこの高根城なのです。
私も大昔に、地元の戦国城址の復元を自治体に提案した事がありますが、『バカじゃないの?』…と言わんばかりに却下された記憶があります。
しかし近年では戦国の城が復元される事例もチラホラあり、観光だけでなく、時代劇の撮影なんかに使われていますね。
茨城の逆井城や長野の荒砥城は有名ですが、愛知にも足助城や田峯城があります。
あっ、田峯城はここから近いので、この後はそこ行って見ましょ~う(^^;























