小谷城の四回目、最終回です。

 

最後は山頂から西の尾根の砦群を見て、清水谷の屋敷跡を訪ねます

 

 

 『麒麟が…』では金ヶ崎城から命からがら逃げ帰った光秀と秀吉でしたが、史実では浅井、朝倉ともに敦賀への主力の進軍はなく、信長は余裕で京へと帰還し、本隊は池田勝正の殿軍で土豪との小競り合いは有ったものの、大きな損害もなく撤収を終えています。

そして信長は、2ヶ月後にはもう“浅井討伐”の兵を挙げます。

 

 元亀元年6月、3万の兵で岐阜を発した信長は、浅井氏の国境の諸城を調略により落とすと、地域拠点となる横山城を包囲して、浅井領を南北に分断します。

さらに2万を率いて小谷城へと進むと、城の目と鼻の先にある虎御前山に布陣しました。

 一方の小谷城に籠った浅井長政は、朝倉義景に援軍を要請し決戦を指向します。

朝倉勢の接近を知った信長は一旦姉川の南まで下がって布陣しますが、朝倉氏の援軍は家臣団№3の朝倉健景を大将とする8千の兵力のみでした。

 

 わずか十日ほど前に敦賀から帰陣したばかりの義景には、“朝倉の戦い”という決意が無かった証拠ですね。

 逆に織田方には、徳川家康の援軍5千が加わり、浅井、朝倉1万8千と織田、徳川2万5千が姉川を挟んで対峙します。

 

西の尾根にも当時の道筋のまま遊歩道があります。 こちらは傾斜も緩く、要害度は低い様に思えますが、北西に敵を抱えていなかったので、これで良いのか…。

 

それでも二つの砦が朝倉氏により築造されていて、援軍で来た時に使用されていました。

少数ながら常駐の朝倉兵も居た様ですね。

 

福寿丸は元は観音堂があった場所ですが、守将などは判っていません

 

単郭のシンプルな曲輪は急造感もしますが…

 

虎口をわざわざ喰い違いにするなど、高度な部分も同居しています。

 

 

 姉川の戦いは6月27日の早朝に始まり、浅井勢の必死の攻勢に織田勢は押され気味になりましたが、徳川勢と当たった朝倉勢が崩れ、敗走を始めると勝敗の帰趨は定まり、長政は小谷城に逃げ込みました。

 信長は再度小谷城を包囲しますが、この時は城攻めには至らずに、降伏した横山城を接収すると、ここに木下秀吉を監視役に残し、岐阜へと引揚げます。

 

 なんだか裏切りに対する“懲罰”的な始末に終わり、長政への未練を感じさせる処置ですね。

しかし長政にとっては、髄一の猛将:遠藤直経や実弟:政之など主要な臣を多く失い、大きな痛手となりました。

 

 8月になると摂津で三好三人衆が挙兵し、信長は鎮圧に出陣しますが、 これに呼応する様に本願寺勢力が信長に宣戦を布告し、摂津戦線は膠着してしまいます。

 この好機に、長政は朝倉氏と連合で3万の兵で出陣し、信長の背後を狙います。

木下秀吉や柴田勝家の居る東近江を避け、湖西を南下した連合軍は織田方の宇佐山城を落とすと、入京を目前にしますが、危急を聞いた信長が反転し京に戻ってくると、充分な戦力を持ちながらも決戦を避け、比叡山に登って籠ってしまいます。

 勝つ自信が無く、より多くの味方(僧兵)を得たかったのか…不可解な行動ですね。

長い滞陣の後、結局は朝廷と将軍の斡旋で和睦となりました。

 

次の山崎丸(の看板)がなかなか現れず、見逃したのか?と思っている所に堀切風の地形が…

 

これは砦遺構に違いないと、少し登って見ると明瞭な切岸

 

土塁も高く、2郭から成る高度な遺構で、山崎丸?でも看板無いし…と悩んでいると

 

下の堀底道から遊歩道に出たところに看板ありました。 堀切を見つけなければスンナリ見れたのです

 

山崎さんは『麒麟が…』でもお馴染みの山崎さんです

 

 

 年が明けた元亀2年の2月、東近江の佐和山城を守っていた磯野員昌が、横山城の木下秀吉に調略されて寝返る…という事件が起きました。

敵中に孤立していた員昌を支援できなかったのが原因とも言われますが、筆頭家臣の員昌の離反は家臣団の離反へと繋がって行きます。

 

 翌元亀3年の7月、信長はまたしても3万の兵で浅井領に侵攻して来ます。

長政から義景に援軍要請がなされ、義景は1万5千を引き連れて来援し、この時は戦闘には至らず睨み合いの状態が続きましたが、9月になると将軍:義昭の要請に応えた武田信玄が3万の大軍で疾風の如く西上を開始します。

 一番恐れていた事態に驚いた信長は、岐阜に戻って備えを始めますが、この時に頑張ったのが秀吉で、逆襲に出た十倍近い浅井、朝倉軍を一手に引き留めて凌ぎます。

そればかりか逆に甥の秀次を人質にして浅井の有力部将:宮部継潤を調略していました。

 

 遠江に入った武田信玄は鎧袖一触で徳川軍を破り、三河へと進軍して行き、もし秀吉が近江の占領地を支え切れなかったら、信長は美濃で挟み撃ちに遭い憤死するしかない…まさに絶体絶命のその時、朝倉義景が兵をまとめて一乗谷へ還って行ってしまいました。

『江北の冬は寒いのと、長期の滞陣に厭いた』のが理由だそうですから、呆れてしまいます。

長政にすれば今さら気付いても遅いのですが、『完全に組む相手を間違えた』事を思い知らされた事でしょう。

 

山崎丸から5分も降りると、人里が見えてきました

 

イノシシ門を閉めて、山岳縦走も終わりです

 

最初の場所に戻りました グルリと歩いた稜線がすべて見えます

 

天正元年の戦いの両軍の動きです(一部推測もあり)

 

 

 “信玄の病死”にも助けられた信長は、明くる天正元年の7月に3万の兵で最後の戦いをするべく近江に出陣します。

浅井氏攻撃で小谷城を包囲し、大嶽から西尾根を攻略するものの、狙っていた獲物は朝倉氏で、朝倉の援軍と小谷城を分断する形で北向きに布陣します。

 朝倉義景は2万の兵で駆け付けるも、小谷城へ近づく事は叶わず、“これでは救援は困難”と判断すると、まもなく越前へ向け撤退を開始しました。

 これを待っていた信長は自ら先頭に立って追撃し、越前国境の刀根坂で殿軍に追い付くと大会戦となります。

 実質朝倉氏の最後の抵抗となったこの戦いでは、山崎吉家、河合吉統など虎の子の重臣が殆ど討死にし、3千もの兵を失った朝倉軍は逃走、投降が相次いで壊滅してしまいます。

 

 一乗谷まで追って朝倉氏の滅亡を見届けた信長が、虎御前山に戻って来たのは半月後の事でした。

 この間に小谷城では、朝倉に見捨てられもう助からない事を知った兵卒の逃亡が相次ぎ、僅か2千に満たない数で東尾根の主郭に籠っていました。

  再攻撃に先立ち信長は長政に降伏勧告を行います。

その条件は『大和一国を与える』という実質加増になる破格のものだったと言いますから、荒木村重や松永秀久の時もそうですが、優秀な武将に対する信長の愛情と粘りには変態的なものがありますね(^^;

 

 しかし、長政がこんな条件をのむ筈もなく、8月28日には総攻撃が発せられました。

この時点の浅井勢は、山王丸に久政が800の兵で籠り、長政は500の兵で本丸を守っていましたが、織田勢は東尾根の上下から力攻めの猛攻を仕掛けたので、すぐに防戦一方になってしまいます。

 自然と手薄になった京極丸に水ノ手道から木下秀吉率いる3千の兵が乱入すると、どちらも挟撃される形になってしまいます。

久政はその日のうちに力尽き、小丸で自刃して果てました。

 

 長政は翌日まで粘りますが、最期を悟ると信長の血縁となる妻子を織田方に引き渡し、残兵200で撃って出て、自らは本丸下の赤尾屋敷に入って自刃し、ここに浅井家は滅亡してしまいました。

 小谷城と浅井領は武功一位の秀吉に与えられましたが、秀吉はこの城を嫌い、湖畔に新城の築造(今浜城)を請うて赦され、小谷城は廃城となりました。

 

資料館から清水谷を奥に遡ると、浅井氏と重臣達の平時の居館(根小屋)跡になります

 

後世に耕地化されたのは確実で、明瞭な遺構は乏しいのですが、所々に五輪塔などが遺り、往時を偲ばせてくれます

 

最奥部にある『御屋敷跡』が浅井氏の居館跡です 448年前には、お市様と三人の姫がこの場所で暮らしていたのです(^^; その頃はクマは居なかったのに…

 

 

 小谷城を一通り歩いて見て、城域の広さから代表的な巨大山城なのが判ります。

ただ、東尾根以外の防備は脆弱で、圧倒的な敵に囲まれた時、それを呼び込んでどう叩くか?…といった縄張りの戦略性にはピンと来ないものがあります。

天嶮に万余の守兵が居てはじめて成り立つ、東京の八王子城とよく似ていますね。

 改めて感じるのが、周囲から掘り崩して行く様な秀吉の攻城の巧みさ。もうこれは後にも先にもダントツ日本一です(^^;

 そして信長ですが、長政を属将の一人に欲しかった…これは疑い様がありません。

それに対しての長政はと言うと、プロセスを大事にする気質だったのか、阿吽での追従を求めるやり方に付いて行けなかった感があります。

光秀にも通じる部分ですね。

 

 もしも長政が信長に追従出来ていたら…。

織田家中に徳川家康同等もしくはそれ以上の存在感が有った気もしますが、ひょっとしたら光秀と同じことをやらかしていたかも知れませんね。

 

さらばじゃ!!

 

小谷に初登城