小谷城の三回目です。
今回は浅井長政の裏切り(金ヶ崎の退き口)の謎に迫って見たいと思います。
京極丸から山頂の大嶽城まで歩きます
永禄3年(1560)の野良田での戦勝では、六角氏からの寝返り組を加え、南に勢力を拡大した長政は、久政までの朝倉傘下の色合いを脱して、独自の政策を進めて行きました。
当面頭が痛いのが東隣の美濃の状況で、永禄4年に斎藤義龍が死去し、年少の龍興が家督を継いでいましたが家中は不安定で、特に西美濃の国人達は調略で織田氏に傾いて行ったので、境を接する浅井家との間で小競り合いも発生していました。
前年に桶狭間で今川氏を破った織田氏の勢いは凄まじく、もう斎藤氏は風前の灯で、次に狙われるのは浅井氏かも知れません。
京極丸は京極高清、高吉親子を軟禁した場所だと言われます。 平時でもこの山上に居たのでしょうかね?
貴賓者の郭らしく、全周土塁が巻いています
水の手口枡形門跡 天正元年の城攻めでは、木下秀吉が此処を突破して攻め入り、浅井勢を上下に分断する形となり、落城が決定的となりました
上端の郭は小丸と呼ばれます。 浅井久政は此処で自刃しました
この差し迫った状況に先手を打ったのは織田信長で、浅井家に同盟を打診して来ます。
これには家中の意見も二つに割れ、久政はじめ朝倉に近い面々は猛反対でしたが、信長からは浅井家に有利な条件が示され、当面の軍事的脅威で見るとメリットは大きいので、長政の心は同盟締結へと動きます。
最大の課題は、既に同盟関係にある朝倉義景が信長を嫌っている事でしたが、近江の領地を守るには旧恩ある朝倉の顔よりも自分の判断(家の存亡)を優先する…。
長政がすでに自主自立の戦国大名だった証しですね。
永禄10年(1567)、浅井家は織田家と同盟し、信長の妹:市が長政に嫁ぎました。
ちなみに朝倉家の扱いは、織田が朝倉を攻める際には、浅井家との事前協議を要する事が約されたそうです。
東尾根の最頂部にある山王丸 東尾根のみが使われた後期の小谷城では詰め城となりましたが、本来は祭祀の場だった様です
かなり崩落していますが、此処には髄一の高石垣が積まれていました
山王丸を過ぎると30mの比高差を下ります。 この段差が東尾根を独立した城として機能させています
永禄11年、信長が足利義昭を擁して上洛の軍を起こすと、長政は3千の兵を率いてこれに合流し一緒に上洛しましたが、これ以降の長政に信長に協調した目立った動きの記録はなく、三好勢が巻き返しを図った『本圀寺の変』でも、岐阜から雪中を押して信長が駆け付けたのに対し、長政は参陣していません。
同盟関係と言うには物足りない親密度ですね。
下がり切った尾根上が削平され、六坊と言う平場になっています
領内六ケ所の寺院のお堂が建っていた様ですね。
山頂の大嶽城へ登る前に、北東の尾根にある月所丸を訪ねます
この年、若狭国の領有を狙う朝倉氏が侵攻し、当主の武田元明を拉致し、一乗谷に連れ帰るという事件がありました。
若狭武田氏は安芸の国人でしたが、足利義教に若狭守護に任じられて以来、地の利もあって将軍家の私兵の如く仕え、京の北面を守って来ました。
しかしこの頃には他の守護大名と同様に家中が乱れ、重臣が領内を割拠して、守護とは名ばかりの状態でした。
将軍義昭も、かつて六角氏の後には妹が嫁しているこの武田氏を頼りましたが、見る影もない惨状に越前朝倉氏の元へ移った経緯があります。
大軍を動かす権力を得た今、力で武田氏を立て直したいと考えても不思議ではありません。
急峻な小谷山全体を城とした時、攻め口は4筋の尾根伝いしかありません。 そのうち北東の尾根を守るのがこの月所丸です。
尾根に築かれた細長い曲輪ですが、なんとなくこの城で一番の戦国の臨場感を感じます
元亀元年(1570)4月、京に集まった信長を総大将とする幕府軍3万は、西近江から二手に分かれて一気に若狭国へと侵入しました。
“幕府軍”としたのは、信長の指揮下にない摂津守護:池田勝正や幕臣、公家の一部まで加わっている為で、従来言われる“信長の朝倉征伐”ではなく、将軍の意思による出陣なのは間違いありません。
しかし信長には独自の思惑もあって、チャンスがあれば何かと目障りな朝倉を一度叩いておきたい…と思っていた事でしょう。
家康も居るこの編成に浅井氏が入っていないのは、成り行きでの朝倉侵攻を浅井氏に追認させる為の事(長政への思いやり)か、もっとドライに、煮え切らない浅井の出方を試したのかも知れません。
東端は高土塁を背負った武者溜まりの郭になり…
その向こうは切岸と二重堀切で断ち切られています。 いやぁ、鉄砲を抱えた足軽の気になって、しばし佇んでしまいました(^^;
幕府軍が若狭に入ると、国人達は戦う事無く降伏し、名目の若狭平定は数日で成りました。
信長は治安維持のため後瀬山城に丹羽長秀を残し、武田氏による若狭統治の回復を指示しますが、当の武田元明は一乗谷に囚われたままです。
当然、朝倉氏に対し返還要求がされますが、義景は応じない…。
すべて筋書き通りの展開で限定的な越前への懲罰侵攻が決議され、幕府軍は関峠を越えて越前へと侵攻しました。
国境を守る(若狭侵攻含め)朝倉氏の武将は朝倉恒景で、金ヶ崎城を本拠にしています。
幕府軍は手筒山城などの支城を落とすと金ヶ崎城を囲み、一部は木の芽峠に達して敦賀郡を掌握しましたから、この出陣の最終目標は朝倉勢を木の芽峠以北に追いやる事にあった様ですね。
月所丸の入口(城側)には“畝堀”と説明されてる遺構がありますが、この場所に畝堀は何の効用も無いので、山腹に穴を穿ち、滲み出した水を貯めておく池が連続して造られたのでは? と思います。
大嶽城に向けガンガン登って行きます
一方で肝心の浅井長政の動きです。
信長の若狭侵攻で朝倉と交戦になり、その事で久政はじめ親朝倉派が浅井家の主流の声になる事もある程度は予想してたと思います。
その上での当主としての長政の選択ですが…
一、強引で勝手な信長のやり方を黙認して決して動かず、今後は一段下がって織田傘
下の一大名として生き残る
二、対等な同盟者に無断の侵攻は無礼の極み、今後の協調は無理なので旧恩ある朝
倉と組んで徹底的に戦う
の二択になると思います。
結果は知っての通りですが、立場の近い徳川家康と比べて対極の選択、自主自立の自尊心が家の命運をも上回ってしまいました。
途中で視界が開け、東尾根の全容が見えて来ました これは、単独の山城として機能するわ(^^;
さらに登って大嶽城に入ります
築城当初は小谷城本丸として造られましたが、朝倉氏と同盟して以来、朝倉の援軍が布陣する城となった様ですね
長政は信長の背後を衝くべく越前国境に兵力を配置します。
朝倉義景の出陣を待って同時に挟み撃ちが申し合わせた戦術だったのでしょうが、この動きを知った信長は素早く兵を引いてしまいました。
朝倉軍が大挙一乗谷を出たのはその二日後の事で、軍を率いる朝倉景鏡、景健には敢えて家門筆頭の恒景の敗走・失脚を待っていたフシさえありますから、この時点で朝倉家はもう終わっています。
結局、長政に残ったのは信長が敵になり一手に戦う過酷な事実だけでした。
最後に信長の本心ですが、家中が一枚岩でない長政に対し、『反対派を黙らせ正しい選択をする絶好の外圧』と考えていたのではないでしょうか?
価値観とプロセスが噛み合わない残念な思い…もし後日の本能寺の変に際しデジャヴがあったとすれば、この時の記憶かも知れませんね。
朝倉氏によって整備された痕跡が伺えますが、天正元年の本戦では朝倉軍の到着前に信長が奪取してしまいました
主郭はかなりの広さがありますね
山上から見下ろす清水谷の根古屋跡 標高差があり通信や反撃行動にも不便なので、浅井氏は東尾根に集中して整備・運用した様ですね
*いつもながらの個人の勝手な解釈です。史実とされる説の他にも諸説があります。
さて、今夜の『麒麟…』ではどう描かれるか?
小谷に初登城 Ⅳ につづく