長らくのご無沙汰ですみません。

もう9月に入って、8月は結局ブログの更新はナシで終わってしまいました(^^;

 

早稲のこの地域は、稲刈りは夏の季語で、8月中に殆ど終わりました

 

 

 知見の少ない俄か農民にとって、この夏の天候は最悪でした。

太陽の出ない7月と雨の降らない8月の両極端な二ヶ月間で、菜園の夏野菜は例年の半分以下の大ダメージです。

 開花~結実が少なく、勢いを削がれた苗たちは、後半の日照りで挽回する気力も萎えてしまった様ですね…。

 

スイカも今年の最大は7月末収穫のもので、記録更新ならず 糖度もイマイチですね

 

それでも大きさだけで喜んでくれる孫たちには、報われる(^^♪

 

 

 『城歩き取材』も幾つか訪ねましたが、“コロナ狂騒曲”の逆風は衰える事を知らずで…暑い盛りにマスクを着けての山登りは三倍疲れますわ(*_*;

 

 

 そんな中、奥さんのたっての希望で(TVの情報番組でも見たのかな?)、琵琶湖の竹生島へと出掛けて来ました。

 島ですから船で渡るのですが、長浜から『琵琶湖汽船』の観光船が一日10便(平日は5便)運航しているので、利用させてもらいます。

 

長浜港を出航 幸い湖面は凪いでいます

 

すぐに右手に見えてくる長浜城址。 天守は模擬ですが、湖城の雰囲気は伝わります

 

そして奥には小谷山 少し煙っていますが、あそこを踏破するのも延び延びになっている課題のひとつです

 

さらに進むと、義経の城があった山本山。 尾根続きで賤ケ岳まで見えます。 新鮮なアングル♪

 

 

 竹生島は琵琶湖の最北部にあり、♪瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い傳えの竹生島…と唄われる様に、奈良時代の昔からの水神信仰の島で、浅井比売命を神体とする都久夫須麻神社と、行基の開基による宝厳寺の絢爛な社殿のみが建つ島です。

 毎日『御朱印マニア』で賑わう竹生島ですが、社寺には疎い城マニアでも興味を惹かれるのは、此処に唯一“豊臣大坂城”の残存遺構が移築されているからです。

 

そうこうしてる間に、ひょうたん島が近付いて来ました

 

急な岩壁の島…ですね

 

下船しました。 乗って来た船はヒオ・グランジ号(200人乗り)でしたが、乗客は50人くらいでした

 

 

 

 島に着き下船すると、朝の便で来てた人達が入れ替わりに乗船して帰って行きます。

日曜日だった事もあり、百人以上の人が乗りました。

だいぶ回復して来た感じですね。

 

 船着き場の奥に宝巌寺の参詣口があり、拝観料500円/人を払って入ります。

入口からは急な石段が本堂まで続きますが、平地の無い斜面の狭い島なので、堂塔は斜面にへばり付く様に建てられ、急な石段で繋がっています。

30分もあれば全域を見て廻れる感じですね。

 

蹴上の高い急な石段は165段。 手摺りもなく脚力勝負です(^^;

 

頂上の宝厳寺本堂 朱塗りの神社様式ですが、本尊が弁財天です。なるほど 

昭和17年築の比較的新しい建物

 

さらに新しい、平成12年再建の三重塔

 

重い棟木を、鬼の形相で支えています(^^;

 

 

 肝心の大坂城の遺構なんですが、寺の東端の観音堂入り口の唐門がそうで、大坂城本丸の山里曲輪へ入る搦手口にあった極楽橋入口門からの移築だそうです。

橋の外側に門て…変な感じですが、極楽橋は屋根と壁のある“廊下橋”だった時期がある様ですね。

 築城当初の絵図と冬の陣図屏風には、普通の木橋が描かれていますから、床板を外さなくても良くなった(敵が居なくなった)時期に、架け替えられたんでしょうか?

 

今年の春に修復を終えたばかりの綺麗な唐門 歴史と由緒があり国宝です

 

秀吉チックに立派で豪華ですが、日光東照宮をはじめとする江戸初期の徳川の唐門はさらに大きく立派ですね 伝統の『三河の後出しジャンケン』の始まりか?

 

 

 秀吉が死んだ後の慶長5年(1600)、この門(廊下橋も)は撤去されて、京の豊国廟へと移されましたが、その2年後には淀殿の意向で、浅井比売命を祀る竹生島へと移築され今日に至るそうです。

 

左:築城時と 右:廃城前の極楽橋 セオリー通りに搦手木橋ですよね

 

廊下橋になった復元図 北条征伐後に増築されたか?

 

 

 観音堂を奥に進むと都久夫須麻神社ですが、この間に懸造りの廊下橋が架けられています。 この廊下も秀吉所縁のもので、朝鮮出兵時の御座船『日本丸』の船上櫓を利用したものだそうです。

 

都久夫須麻神社へと渡る廊下橋

 

一間半で、船櫓にしてはちょっと狭い気がしますし、さほど凝った意匠でもありませんが…

 

 

 

 日本丸は秀吉の命で九鬼善隆が建造しましたが、九鬼家の資料によると長さ25m、幅9.5m(甲板サイズ)で、約600tの船だった様です。

櫓は望楼を含め3層ありましたから、一部を活用した…という事ですね。

秀吉はこの船で大坂~名護屋を行き来していた事でしょう。

 

都久夫須麻神社本殿 慶長7年(1602)、秀頼の命で片桐勝元が再建しました 国宝

 

かわらけ投げで、これからの運試し! かわらけに願を書いて投げ、鳥居の柱間を通ると叶うそうです。 

持ち球のスライスを意識して左の柱を狙いましたが、大きく右傾して右手前の海へ… ダメだコリャ! 

 

滞在85分 帰りの船で離島します。

♪仏の御手に抱かれて 眠れ乙女子 安らけく…  これは誰に言ってるのかな?

 

 

 

 『麒麟が来る』が再開されましたね。

将軍の実権を取り戻したい義輝の苦悩から始まりましたが、同様なジレンマは現在の日本国にもある様に感じます。

 メディアは意図的に報じませんが、米中の対決を取り巻く周辺国としてのスタンスの取り方は、今後百年の計に大きく左右します。

折しも首相交代の今、厳しい外圧こそが国体と憲法を改める大きなチャンスだと思います。 『先に何があろうと目先の現状が変わる事を好まない』大多数の国民を強引に引っ張って、遺産の切り売りでゆっくり没落の蟻地獄から引きずり出してくれる『麒麟』は、やって来るのでしょうか?