二条城散策の最終回です。

二ノ丸御殿北側から東大手門に戻り、外に出て外堀沿いに周回して見ます。

 

 

 

 “関ヶ原”が終わり、徳川家康が実質の天下人となると、家康も京での自身の拠点を新たに築造し始めました。

“⑤豊臣二条城”址の西側の、大宮押小路に造られたのが現存の“⑧徳川二条城”の前身で、このタイミングでは軍事的な拠点としての伏見城がまだ機能していたので、参内時の宿泊所に特化した単郭の御殿でした。

 その為か、慶長8年(1603)の将軍宣旨は伏見城で受け、二条城では公家衆を招いた祝宴が行われています。

 慶長16年(1611)に豊臣秀頼との会見が行われたのも、この二条城でした。

 

 秀吉最後の“⑦京都新城”については、家康が大坂城西ノ丸に入る時点ですでに高台院(寧々)の隠居屋敷になっており、高台院の没後には御所の拡張用地として朝廷に献上されました。

 

 

二ノ丸内から見る北大手門 この外側に京都所司代が置かれたので、徳川家臣の通用門として使われたのでしょうか

 

 

二の丸御殿北東の土蔵群(重文) 祭祀や饗宴に使う什器などが保管されていたのでしょうね

 

御殿に続く台所、御清所の前には広場があります。 台所とは賓客以外来客やスタッフの通用口でもありますから、一番賑わう場所です。

 

 

 以後、2代秀忠、3代家光と、将軍宣旨と祝宴の儀が二条城で行なわれましたが、肝心の西国大名の監視・統制の機能は京都所司代が持っており、朝廷監視はその要が弱く、二条城は単に幕府の公式儀式の場だけになりました。

 寛永3年(1626)には後水尾天皇が行幸され、この時は将軍:家光と大御所:秀忠が上洛して応対しただけでなく、二条城は大幅に拡張され、現在の縄張りになりました。

 この時、本丸に造られた行幸御殿は、その後の天皇譲位とともに御所内に移築され、仙洞御所となったそうです。

 

 しかし、その後の将軍宣旨の際の上洛は廃止され、そもそも将軍上洛自体が無くなったので、二条城も城代、城番は居るものの、まったく使われる事はありませんでした。

 

 

外に出ました。 現存の東南隅櫓、巽櫓とは呼ばない様ですね

 

横矢のないシンプルな堀と石垣です 『もっと強化しては?』との藤堂高虎の問いに家康は、『2日持てば援軍が山ほど駆け付けるから良いのだ』と答えたそうです。

 

この南門は、離宮になった後に“大正天皇の儀式”用に造られたものです

 

 そんな徳川二条城が再び陽の目を見たのは、もう幕末の14代将軍:家茂の代にまで下がります。

 文久3年(1863)、欧米列強との交わりを毛嫌いした朝廷は、家茂の上洛を促し、“攘夷”を強く要求する訳ですが、その際の家茂の宿所として、荒れ果てていた二条城は再整備されました。

 

 将軍が15代慶喜に替わると、その活動の場は二条城でした。

朝廷の信任を確保しつつ、長州を始めとする討幕派諸藩との対決、そして家門・譜代の統制と慌ただしく動き、そして“大政奉還”を諮問したのも二条城でした。

 

 明治になると、二条城は陸軍の管理下に置かれ、明治17年には宮内省に移って、皇室の別邸“二条離宮”となりましたが、東京遷都も定着した昭和14年には京都府に下賜され、史跡となって現在に至ります。

 

これも重文の西南隅櫓、櫓の現存は2棟のみです

 

搦手口の西門 非常時には木橋を落として“埋門”に出来そうですね。 “城”を感じさせる数少ない遺構です

 

北大手門を外側から 門は開いているものの、見学入場は出来ないみたいです

 

 

 歴代の二条城(類する城館も含め)を通して、武家政権と朝廷との関係性を探って来ましたが、徳川政権の二条城ではもう朝廷を危険視する発想はなく、万民が崇拝する『実体のない神』として祀り上げてた様ですね。

 天皇を担いで討幕を画策する勢力も居ないので、朝廷を守護する機能も薄いのが下図から判ります。