足利将軍の室町館(花の御所)は代々の将軍が住みましたが、管領家や有力守護が台頭し、実権を奪われるに連れて次第に寂れ、10代義澄~12代義晴の頃には近隣への疎開状態に追い込まれる期間もありました。

 13代将軍義輝は、実権を握る三好長慶と和睦すると入京し、天皇の御所に近い斯波邸跡に新たな館“③足利御所”を築いて、政権の奪還を図ります。

この館は水堀と土塁に囲まれた城館形式のものでしたが、完成間近のタイミングで松永久秀らに襲撃され、義輝は殺害されました。

 

本丸から二ノ丸の北側を歩きます

 

 

本丸ではまず天守台へ 本丸御殿は改修工事で入れません。 ただ、現在の御殿は今出川にあった桂宮邸を移築したもので、皇室の二条離宮への転用の一環ですね。 

徳川二条城の本丸御殿はと言えば、天明8年(1788)の大火で焼失しました。

 

天守台石垣には焼け痕が残っていますね。 この天守は寛永3年(1626)に伏見城天守を移築した、五層五階の層塔型天守でしたが、寛延3年(1750)に落雷により焼失し、再建はされませんでした。

 

この天守は徳川家光が、後水尾天皇の行幸を迎える為に拡張し、建て替えた天守で、天皇は何度も望楼に登られ、京の景観を楽しまれたそうです

 

 

 永禄11年(1568)、織田信長が義輝の弟の義昭を奉じて上洛し、義昭が15代将軍になると、信長は足利御所を大改修して義昭の居館にしました。 

 この館は石垣が積まれた本格的な城館で、後に“旧二条城”と称されるものですが、足利将軍と言えども、すでに権威のみの存在で、兵力・財力は寄生する有力大名に依存しなければならない象徴の様な築城ですね。

 

蔵書より 信長が建てた足利御所(旧二条城)復元イラスト 朝廷に真の実力者はもう将軍でも守護大名でもなく、戦国大名に移っている事を知らしめた城です

 

 

 天正元年(1573)、足利義昭は信長に依って追放され、足利御所はその役目を終えます。

天守他の建物は築城中だった安土城に流用され、跡形なく更地にされたそうです。

 

 織田包囲網も瓦解し、畿内に敵の居なくなった信長は、上洛の際は妙覚寺を宿所にしていましたが、前年から寺の隣の二条邸に目を付け、自身の宿所となる館の造営を始めていました。 代替の邸を用意した上で始めた普請は天正5年(1577)に竣工しました。

 “二条御新造”と呼ばれたこの館は、足利御所に比べると半分程度の規模で、防備も十分ではない、文字通りの邸宅だった様です。

信長が朝廷を脅威として意識して居なかった事が伺えますね。

 

 信長は此処を2年ほど使いましたが、正親町天皇の皇太子の誠仁親王に献上し、“二条新御所”となりました。

 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信忠が籠った二条城とはこの二条新御所の事で、“④織田二条城”なのです。

 

見下ろす本丸西虎口は外枡形になっています。 堀幅も外堀の倍はありそうですね。

 

本丸はフル多聞のフル雁木だった様です

 

西虎口の櫓門跡

 

枡形の外から こちらはオーソドックスな高麗門があった模様

 

二ノ丸に出て、内堀に面して建つ土蔵(重文) 寄せ手を利する、こうゆう配置は禁じ手ですけど…。 平時の城の象徴かもね(^^;

 

 

 羽柴秀吉が信長の継承者になると、京での朝廷工作の拠点としての館が必要になった秀吉は、二条通りの西側にあった妙顕寺を移転させて、跡地に城館を造ります。

“妙顕寺城”とも呼ばれたこの城館は、周囲に堀を穿ち、天守まで有ったそうですから、"⑤豊臣二条城”と言って差し支えないでしょう。

 数日前、この城の遺構(堀と石垣)が発見された…というニュースもという流れていました。

 

本丸西面の石垣群は立派で、二条城が城である事を思い出させます。最奥が天守台

 

二ノ丸の内側は土塁のままでした(^^;

 

北側中仕切門 家康が築城した当初の二条城は単郭の城で、右手の石垣までが郭内でした。 それを家光が西側に大きく拡張し、内堀を掘って輪郭にしました。

 

清流園庭園 単郭の旧二条城では、北西端の此処に天守台があり、大和郡山城から移築した五層五階の望楼型天守がありました。

 

 

 天正14年(1586)、関白となり豊臣姓を得た秀吉は、天下人に相応しい壮麗な御殿を京に造り始めます。

後に"⑥聚楽第"と呼ばれる御殿で、かつての平安宮大内裏跡の選地と、天皇の御所に数倍する広さ、華麗さで空気読まないのも秀吉らしいところですね。

 

蔵書より 聚楽第復元イラスト  京にこんなもん造るのは、秀吉ならでは。

 

 天正15年(1587)に竣工した聚楽第でしたが、10年後の秀次事件で腹立ちまぎれに破却してしまい、何も残りませんが、壊すくらいなら朝廷に献上して御所にすれば、少しは男を上げる事ができたのに…(^^;

 

 居城の伏見城からでは、参内に不便を感じた秀吉は、御所の南隣(現:仙洞御所の地)に新たな城館を造りました。

”⑦京都新城”とも呼ばれたこの館は、さすがに大人しめの邸宅でしたが、建築途中で秀吉が死んだので使われる事はありませんでしたが、その企図は二条城だったと思われます。

 

 

③につづく