COVID19は当初の思いの外、長期化した大事になり、不自由な日々ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

家庭菜園は例年より1週間早く、夏野菜の植え付け完了。 隣のお茶農家さんから貰う肥料袋が活躍します

 

 例年この時期は、畑の仕込みで繁忙なタイミングですが、今年ばかりは4月中に有り余った時間を使って、じっくり取り組めました。

 

 5月になった一昨日は薫風の好天に恵まれて、絶好のお出掛け(城攻め)日和でしたが、不急の外出・国間越境も憚られるので、内緒で誰も居ない“お気に入りの場所”へミニ登山して来ました。

 我が家から10kmほどの行程にある“東海自然歩道”のとある展望台なのですが、こんな日和には伊勢平野と伊勢湾が一望できる絶景が楽しめる場所です。

 

昔、子連れでよく来た展望台 今も健在で、景色も変わっていません(当たり前か(^^;)

 

見える景色をパノラマ編集で再現。

 

北半分は鈴鹿山系から四日市、鈴鹿方面 遠くは名古屋から御嶽、恵那山、猿投山などが見えます 手前の建物はSHARP亀山工場

 

南半分は津、松坂、伊勢方面 伊勢湾と知多、渥美、志摩の半島、湾口の答志島や神島が見えます 右端の山は伊勢妙義(錫杖岳)

 

 海あり山ありの大パノラマに、一瞬ながらも閉塞感が和らぎ、田舎に暮らすメリットを享受しました。

 

 

 『城ある記』も、計画していた遠征を自粛中なので、新たなネタがありません。

しかし幸いにも、ブログに未掲載の過去ネタは五萬とある(150くらい(^^;)ので、少しの期間は過去ネタを掘り起こして載せて行きます。

ローカル&マニアックのほどご勘弁ください。

 

 まず長野工藤氏の城で、国史跡の長野城・細野城と、 規模の大きい安濃城は昨年掲載しましたが、他の主な城も載せて行きます。

 

 

 

 

【家所城】 登城日:2019.02.26

 

 家所(いえどこ)城は長野川の中流域に在って、長野氏の居城:細野城の入り口を護る様に地取りされています。

 同時にこの場所は、北の安濃川流域の穀倉地帯、東の安濃津の湊にも出やすい地選ですが、南の北畠領の一志郡とは隣接している最前線でもあります。

 近郷の24ヶ村を所領とした家所氏は、長野氏4代:藤房の三男:祐歳を祖としますが、末期にはほぼ“重臣”として位置づけられていた様です。

 

日本城郭体系より 縄張り図 単郭の居館から増殖して行った事が伺われる縄張りです

 

南西方向からの遠景 明顕寺の境内も城域だった様です

 

大手口の一段高い平場 城に集住してたとは考えにくいですが…

 

主郭の虎口は低いながら石垣で強化されています。 頑丈な櫓門を建てるがゆえですね。

 

 

 家所城は田畑が広がる盆地の中央にポツンとある小丘上に築かれています。

大手虎口は南側にあり、ほぼ直線的に主郭へと登って行きます。

 主郭は土塁で巻いた方形の広い郭で、中世居館を思わせる形式ですが、周囲に大規模な横堀や東の尾根上には郭群が付加されています。

 市の史跡だから保存整備も限定的ですが、時代が進むに連れて機能を強化する進化の具合が良く見られる城です。

 

土塁のある主郭の広さは2千坪。 スタートが単郭の中世居館と見る所以です。

 

北西の隅には物見台もあります

 

主郭の北側にあった菩提寺:什心寺跡地 ここは荒れています

 

 

 家所氏は8代続き長野氏に仕えますが、永禄11年(1568)の織田信長の侵攻に敗れると、家所藤安は討死にしたとも、降伏して織田家臣になったとも言われます。

兵500を率いる大将がその後に名前が出て来ないのは不自然であり、討死に滅亡説が有力と思われます。

 

さらに北麓に下りる搦手道は敢えて狭隘に掘り下げてあります

 

北麓にある家所藤安の墓

 

切岸の外郭が全山要塞の構造を物語っています

 

 

 

【榊原城】 登城日:2019.02.26

 

 続いて訪ねたのは榊原城。

長野氏の城ではありませんが、家所氏が長年対峙した北畠氏の最前線の城というつながりで登城して見ます。

 

現:榊原小学校の裏手にある小丘が榊原城の本丸跡です

 

学校の裏門付近に登り口はありますが、案内看板は一切ありません

 

 

 榊原城は『清少納言ゆかりの名湯』榊原温泉の町の中心にあります。

一時期伊勢国守護を務めた仁木氏の一族がここに住み着いたのが始まりと言われますが、やがて北畠氏の傘下に入って、一志郡を巡る長野氏との戦いでは常に戦場となり、守り抜いた氏族です。

 

縄張り古図 三郭からなる広大な城地で、本丸には天守の記載も。 三ノ丸がそのまま小学校の敷地ですね。

 

本丸跡には一部土塁が残り、僅かに雰囲気を伝えています

 

 

 榊原城へは榊原小学校の裏に登り口があり、登りきった高地が本丸跡と言われます。

周囲を土塁で囲った郭の名残りが僅かに有りますが、昭和の戦後まもなく、学校用地として大きく改変され、遺構の殆どはその時に失われました。

 

本丸と地続きで広くフラットな二ノ丸跡 実は昭和42年に廃校となった榊原中学校の跡地です

 

榊原氏の興亡と城地の変遷を見て、守られたのはこの地蔵様だけか…。

 

 

 信長の侵攻で降伏し、織田軍に吸収された後は、北畠信雄ではなく織田信包に仕えたといいます。

 なお、榊原氏4代目:道敦の弟の清長は分家して三河に移住し松平氏に仕えましたが、その孫が徳川四天王の榊原康政です。