八幡山城に続いて訪ねたのは北之庄城、福井にある柴田勝家の城(あちらは北ノ庄城)ではなく、近江の北之庄城です。
八幡山城とは尾根続きの岩崎山にあるこの城、築城時期は少し古い様ですが、歴史の舞台には登場する事の無かった“謎の城”で、日本城郭体系にも詳細は収録されていません。
しかし、山城愛好家には割と名の知れた“マニアックの城”で、そんな謎に満ちた部分がかえって興味をそそるのかも知れませんね。
八幡山城の北ノ丸 此処から尾根伝いに北へ向かうと、北之庄城跡があります
尾根道はトレッキングコースになっている様です
途中にロープが必要なアップダウンもありますが、山城歩きには初級レベル(^^;
唯一のヒントは、江戸時代の書物に『佐々木六角氏の付城』との記載があるんだそうです。
“付城”とは、敵の居城を攻囲する際に、城側の奇襲に備えて周囲の要害に構築する陣城の事です。
多くの場合が、急拵えの砦になる訳ですが、じっくり腰を据えての長期戦になる時には、小田原攻めの際の石垣山城みたいに本格築城される例もあります。
尾根道を歩くこと20分ほどで…
城跡の入り口の案内看板に着きました
写真の縄張り図が見にくいので、ちょっと加工しました。
上段の主郭と、下段の武者溜まりの郭から成る城で、結構な広さでC字型に土塁が構築され、土木工事の量も急造の付城にしては多い様です。
記録に残らないという事は、臨時に造られ僅かな期間で廃城になった…という事ですから、付城には違いないと思います。
しかし、この周囲には大規模な攻城戦をする様な城が見当たらないので、誠に悩ましい限りですね。
更に厄介な事にこの北之庄城、土塁やら虎口やら水の手など、大掛りな土木工事が為されており、築城者はかなりの期日を費やして築いた事が伺われます…。
横堀に架かる土橋を渡り、上段の主郭へと向かいます
しかし、歩道は西側の土塁上を辿っています ここは最高所の南西物見台か? 樹木に覆われて見晴らしは効きません
土塁上の歩道を北上(下る)して行きます
ガラリ見方を変えて、六角氏の観音寺城を攻める為、敵側が築いた付城…というのは有り得ないでしょうか?
観音寺城が囲まれ攻められたのは、まず応仁の乱で三度の攻撃を受けていますが、この時は城郭としての備えも貧弱で、容易に攻め込まれています。
織田信長に攻撃された永禄11年(1568)の戦いは、支城を落とされただけで甲賀に逃げ去り、無血開城したので攻囲する間もない僅か2日での落城でした。
右手は下段の郭の平坦地の筈ですが、笹が生い茂っていて判別は不能(^^;
西側土塁をさらに進んで行くと…
先端は物見台になっていて、長命寺の湊が見下ろせます なんとなく、城の使途が見えて来ました
それ以前に、六角氏内部での内訌、つまり守護代:伊庭氏との戦いがあり、一度は伊庭氏に観音寺城を占拠された事があります。
しかしこの時も、六角高頼は日野の蒲生氏の元へ逃れましたから、観音寺城で長期間籠城するという戦略自体が無い…という事になります。
したがって、観音寺城攻めに付城を築く必要は無いんです。
八幡山城との距離感はこんな感じ
土塁からは切岸が東に延び、それに沿って下段郭内へ下りて行きます
下り切った下段の郭からは、北に向けて虎口が開いていました
守護と守護代の主従の争いは、戦国時代にはザラに有る事ですが、近江の六角氏VS伊庭氏の争いはちょっと異色な感じがします。
文亀2年(1502)から大永5年(1525)までの23年間に大きく三度戦うのですが、どちらが勝とうと勝敗が決した後は“ノーサイド”で、元の主従に戻って居るのです。
見方を変えると、守護も守護代も足利将軍が任命します。
応仁の乱以来、将軍には反抗的だった六角氏当主と、親将軍の立ち位置で仲介に徹していた伊庭氏…扇谷上杉定正と太田道灌に似た構図が有ったのかも知れません。
歩道は下段郭を横切って、東側の土塁の先端へと続いています
東の土塁の先端も物見台になっていて、南を除く三方向の眺望が効きます
そう見た時に、守護代:伊庭氏の勢力地盤はどこなのか? と調べて見ると、観音寺城と琵琶湖に挟まれた西の湖周辺が勢力圏だった事が判りました。
京に直結する琵琶湖の水上交通を抑えていた伊庭氏、そしてなんと、北之庄城はそのど真ん中に位置するではありませんか。
伊庭氏の本願地は繖山北麓の神埼郡能登川周辺にありました。
内訌の中でここを追われ、一時は江北の浅井氏を頼ったりしていますが、近江八幡周辺の湖岸の地域は維持していました。
伊庭貞隆はその時の居城を何処に置いていたのか?
貞隆の足取りをもっと詳しく調べると、意外な史実が出て来るかも知れませんね。
周辺の主な城址を地図上に置いてみました
篠藪をかき分けて見付けた“七つ池”のひとつ 地面を掘り下げた溜池ですから、飲用に供すには煮沸が必要ですね
主郭の平坦地… と言っても、アバウトな削平でした
最終的に北之庄城を活用したのは、六角定頼で間違いないと思います。
伊庭貞隆との最後の戦いは、永正17年(1520)の水茎岡山城攻めで決着します。
湖上に浮かぶこの城に籠った伊庭勢に対し、六角定頼は京から大型の安宅船を陸路回送して攻撃に使ったといいます。
そんな手間と時間を掛けた大規模な城攻めには、戦いを俯瞰する相応の指揮所(付城)が必要ですから、北之庄城のロケーションこそ最適に思えます。
だからあの規模感なんでしょうね。