天正19年(1591)12月、2代目関白となった秀次は秀吉から官僚機構を引き継ぎ、聚楽第を住まいとして政務に専念します。
就任にあたっては、秀吉から関白の心得を書した“訓戒状”が出され、『茶の湯、鷹狩り、女狂いなど、決してワシの真似をせぬ様に…』と、極めて具体的なアドバイスがされています。
さらに、秀次の統治を間近で見守れる様に、伏見に隠居屋敷の造営を決めていますから、唯一無二の後継者:秀次を全力でサポートする気であった事が伺えます。
秀次も豊臣家の将来が自分の双肩にある事を認識し、叔父の期待に応えて関白の務めを堅実にこなして行った様です。
麓のロープウェイ駅の西隣にある八幡公園は
秀次と重臣たちの居館(根小屋)の跡です
その後の秀吉は、“唐入り”を前提に肥前名護屋に拠点を築いて駐留し、諸侯に動員を掛けて足掛かりとなる“朝鮮征伐”の事業に専念します。
国内の統一が成った今、武家政権が配下の諸侯に対し求心力を維持するための恩賞(領地)はもう無く、新たな領地を確保する為には外征しかありません。
文禄2年(1593)4月、朝鮮に上陸した16万の日本軍は朝鮮軍を圧倒し、年内にはほぼ全土を占領しましたが、明国の大軍が参戦して来ると戦線は膠着してしまいます。
安土城みたいに石垣積みの屋敷地が雛壇上に重なっていますが、相対して区画は広めですね
丁度そんな折、秀吉の側室の淀殿が懐妊し、翌文禄3年の夏には男子(のちの秀頼)が誕生しました。
もう諦めていた実子、しかも男子の誕生に大喜びの秀吉でしたが、すでに秀次を後継に決め関白を譲って2年半、継承は上手く推移している事に“早まった感”を覚えます。
『この子が無事に成長した後に、天下人にする術はないものか?』
『日本はこのまま秀次に呉れてやって、明国を征服して王にすれば良いのだが、事はそう容易く運びそうにない…』
『いずれにしても我の死後の事なので、今のうちに道筋を立てておかねば…』
『秀次めが空気を読んで自ら動いてくれぬものかのう…』
絶妙な腹芸で天下を取った秀吉ですから、そんな思いが交錯していた事でしょう。
最奥の最上段にあるのが秀次の居館跡で、7mほどの高石垣が聳えます
近くで見ると上部に大きな石が使われており、強度はありそう。 外敵からの防御力も高そうです
一方の秀次も、秀吉の性格からして実子第一で、養子の身の危うさは理解するものの、優柔不断に適切な発信をせぬまま時を過ごしてしまいます。
これまで政務を執って来た自負から、具体的に指示があるまで職務を全うするとの責任感からか…?
これを危惧した黒田如水からは、『大阪に居たい太閤殿下に替わり(関白を返上して)、秀次殿が名護屋に赴き陣頭指揮を執りなされ』…とアドバイスされますが、それも拒んで指示待ちに徹した様です。
惜しむらくは、上部の屋敷地が荒地の藪と化してしまい、踏査できません。 おそらく、後世に耕地となっていたのは想像できますが…
あくまでも秀次に秀頼の行く末を約束させたい秀吉は、『日本を5つに分け、秀次に4つ、秀頼に1つを与えたい』とか、『秀頼と秀次の娘を夫婦にし、その子が関白を継いでくれたら…』などと仕掛けをしますが、秀次が明確に返答する事はありませんでした。
それまで、“養子”という立場で持ち上げたり落としたり、好き勝手にされて来た事への意趣返しなのか、『秀頼が成人するまでの十数年、誰が豊臣家を守るの?それまで叔父さん生きてる?』…という、半分ブチ切れた状態だったのかも?
事実そこを見越して、秀次に擦り寄って来る伊達政宗や、最上義光、毛利輝元ら有力な大名は多く、待てば『時間が解決してくれる事』と安易に考えていたのかも知れません。
公園内に建つ秀次像 聚楽第同様に、完全に破壊されたと言われる八幡山城ですが、建物以外はほぼ原型を保っている気がします
文禄4年6月、意を決して秀次の処断を決めた秀吉は、石田三成ら腹臣に指示して理由工作させた上で、謀反の疑いで伏見への出頭を命じました。
秀吉に抗う意思など毛頭なかった秀次は、素直に命に従いますが、一度粛清してしまうと政治的な利用を怖れて、生かしておく事も出来ないのが一族の有力者の宿命です。
面会も申し開きも赦されないまま剃髪して高野山に入った秀次に届いた指示は、『賜死』でした。
7月15日、秀次は高野山青巌寺において随行の近臣5名とともに自害して果てました。
享年28歳、辞世は『磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦』と伝わり、秀吉の甥に生を受けたばかりに、弟2名ともにその生涯を翻弄され続けた哀
れを詠んでいる様ですね。
紀州高野山にある真言宗総本山の金剛峯寺は、かつては青厳寺と呼ばれていました
秀次がここに入った5日後、秀吉の正使の福島正則が“切腹”の沙汰を伝えに来ました。 長浜時代を共に過ごした正則でしたが、秀次への態度は三成同様に冷徹だったそうです
粛清の理由が謀反で、有罪となると事は本人の死だけでは済みません。
秀次の子供5名と妻妾34名が処刑された他、重臣の多くが詰め腹を切らされ、公家、町人に至るまで多くの取り巻きが連座の刑に処せられました。
あまりに酷い冤罪ぶりに憤った一門の浅野長政までもが流罪に処せられる徹底ぶりでしたが、子供の頃から護役として仕えていた田中吉政は要領よく乗り切り、“再三諫言していた”との理由で加増されています。
こうゆう人が最後まで身近に居て処世術を指南していれば、秀次の運命も違っていたのでしょうけどね。
秀次画像2種 左がよく使われますが、謀反を企てた強欲者の印象操作の匂いがします たぶん右が実像でしょう
秀次の妻妾と子の一覧 赤塗りは処刑されました
秀吉の側室12名に対し3倍の人数ですが、側室の年齢を見ればこれは“淫蕩”と捉えるよりも、子が育たずジリ貧な豊臣一族を、多くの子をもうけて盛り返したい氏の長者の意思の表れ…と見る方が賢明か
“秀次が生きていたら徳川家康の天下は無かった”などと言われる事がありますが、果たしてどうでしょうか?
秀頼誕生後、間髪入れずに『今後は幼君の片腕となり、豊臣一族を守って行きます』と関白返上を宣言すれば、豊臣秀長的な生き方は出来たと思います。
しかし、あくまでも秀吉あっての秀次ですから、相当な見識と国家ビジョンを持っていないと、後期の室町将軍の様に伊達や毛利など取り巻きの諸侯に好い様に利用されるんでしょうね。
そうなると本流の秀頼を担ぐ三成ら近江閥とは対立し、独自に動く徳川、黒田、島津など… また戦国時代に戻ってしまう可能性が高いと思うのです。
おわり