本能寺の変の直前、三好康永は河内半国も得て、若江城を居城としていました。
5月には長宗我部討伐軍が編成され、康永は先鋒として阿波に渡っており、嫡嗣子の秀次は若江城を守っていた事でしょう。
信長の憤死が伝わると、四国遠征軍は混乱のうちに霧散し、後ろ盾を無くした康永も河内に引き揚げて来ます。
謀反人が政策的に敵対する光秀ですから、その天下となると抹殺されるのは必至で、出家も考えた様ですが、備中から秀吉が戻って来て光秀討伐軍をまとめ出すと、光明を見出して秀次を伴い参陣したのは間違いないでしょう。
本丸虎口枡形内の石積み 積み石を離して間詰め石をたっぷり入れた積み方です
大手櫓台の石垣も同様で、これは耐震性の高い、高度な積み方です 天正大地震にも耐えたものですね
本丸西側の高石垣 下層と上層は布積みと、中間の乱積みが混在した面白い積み方
しかし秀吉はというと、この時点で三好氏はもう将来ビジョンから消えており、参陣して来た池田恒興の娘と秀次との婚約を決めており、縁戚の契りを結んでいます。
清須会議~賤ケ岳の戦いと、しばらくは三好氏として動いていた秀次でしたが、山崎の戦後に秀吉側近からは田中吉政が家老として付いており、畿内平定が成ると秀次も羽柴姓に戻し、“羽柴信吉”と名乗ります。
この時に秀次は三好氏の若江城の家臣を直臣として連れて出ており、大名としての三好氏は実質滅亡しました。
北西の角 明確に折り曲げず、緩く角度をつけています。 横揺れに弱い分、傾斜は大きく工夫しています
琵琶湖方面を睨む西ノ丸
ここの基壇は二段に分けて犬走りを設け、石垣を立ち上げています
秀吉は5年前に実子の石松丸を亡くし、信長にねだって貰い受けた於次秀勝が居ましたが、信長が亡くなり、天下をほぼ手中にした今、織田を引きずる秀勝を後継者にするつもりなど毛頭ありません。
そこで“意のままになる身内の後継者” としてクローズアップされたのが16歳になった秀次な訳ですね。
秀次も叔父の期待に応えるべく、精いっぱい背伸びして戦場へ赴きますが、実戦で叩き上げていない若年の大将が振る采配には限りがあります。
それが如実に現れたのが天正12年(1584)の『長久手の戦い』で、総大将として池田恒興や森長可、堀秀政ら歴戦の勇将を率いた秀次でしたが、当時最強と目された徳川家康の譜代衆に完膚なきまで叩かれ、命からがら逃げ帰る…という歴史的大敗を喫してしまいました。
西ノ丸から望む南側の田園風景 近江が古くから大国なのが解る景色です 俄雨が降って来ました…
本丸最北端の石垣は、見るからに新しい積み方 京極高次が頑張った跡か?
北端の北ノ丸 八幡山は、北へ尾根続きで岩崎山(北ノ庄城)へと続きます
これに大激怒して一度は勘当も辞さぬ勢いだった秀吉でしたが、他に替わる人材も無いので、優秀な側近を揃え、勇将を付けて天下人に育て上げる事にした様です。
翌年の紀州征伐、四国攻めには副将として従軍した秀次は、叔父:秀長や黒田官兵衛、宇喜多秀家などのサポートもあって、無難にその任を務めました。
その論功行賞で秀吉は、近江国内で43万石の大録を秀次に与えます。
安土城の近くの琵琶湖畔に新たに八幡山城を築いて居城とし、安土城下の町屋もすべて移転させました。これ等すべては秀吉自らの指図で行なったと言います。
更には、子飼い大名の中から中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴、一柳直末が与力大名として付けられ、強力な“秀次家臣団” が形成されました。
秀次の領地と家臣(家老)の配置
43万石のうち23万石は与力大名に配分されただけに、錚々たる顔ぶれです
秀次の領内に於ける治世も、宿老の田中吉政が八幡山城に常駐して事に当たったため、円満に統治され、“秀次=名君”の評判は現在まで語り継がれています。
この頃、秀吉には淀殿との間に実子の鶴松が産まれ、秀次の立場は微妙になるかと思われましたが、最も信頼する秀長が病気がちになる先行き不安もあって、二十歳になった秀次に期待するものは大きかったと思われます。
天正18年(1590)、秀吉は国内統一の最後の仕上げに北条征伐の軍を動員します。 秀次は副将として主力を率いて攻め下り、攻囲5ヶ月の末北条氏を降伏させると、続いて奥州平定に総大将として進軍し、翌年2月までには全て平定を完了しました。
この一連の戦功で秀次には、旧領に加え尾張一国と北伊勢5郡が与えられて、都合100万石もの大大名に登り詰めました。
これにより秀次は居城を尾張の清洲城としたので、八幡山城には京極高次が2万8千石で入る事となりました。
本丸東側の高石垣 こちらは間詰め石がほとんど使われていません
道端で偶然見つけた白磁器片 底が厚い特徴から、明代景徳鎮の青花人文碗か?(テキトー)
山を降りて行きます 八幡山城と城下は安土からの引っ越しで成立しました 目と鼻の先です
ちょうど同じ時期、秀吉の分身とも言え、豊臣政権を陰で支えていた弟の秀長が病死してしまいます。
更に夏には秀吉の唯一の子である鶴松も3歳でこの世を去ると、悲嘆にくれた秀吉は呆然自失で有馬温泉に籠ったと言われます。
しばらくして、大坂城に戻った秀吉から発せられたのは、後継は秀次にする事でした。 同時に翌春を期しての朝鮮出兵(唐入り)が布告され、自身は関白を退いてこれに専念し、関白職と国内政治は秀次に任せる旨も発せられました。
そう決まると準備は猛スピードで進められ、その年の暮れの28日には2代目関白の豊臣秀次が誕生したのです。
つづく