次にやって来たのは八幡山城。
豊臣秀吉の後継者が甥で養子の秀次に確定した時期に、秀吉の手で秀次のために築城された城です。
秀次はその後の失脚の経緯や為政者の思惑から、天下人の資質に乏しい人柄に描かれる事が多いのですが、本当のところどうなのか?
この城を歩きながら、その実像をじっくり考えてみます。
日本200名城 №157 八幡山城 滋賀県 登城日2020.03.11
別名 八幡城、近江八幡城
形式 連郭式山城および山麓居館
築城年 天正13年(1585)
築城主 豊臣秀吉
城主 豊臣秀次、京極高次
廃城年 文禄4年(1595)
遺構 曲輪、石垣、空堀、居館群など
史跡指定 なし
所在地 滋賀県近江八幡市宮内町
秀次は秀吉の実姉:ともの長子で、父は弥助という農民階層の人でしたが、義弟となる秀吉の出世で永禄7年(1564)には秀吉の家来として士分に取り立てられています。
秀次が生まれた永禄11年はと言えば、秀吉は信長の上洛後に京の治安を預かる奉行にまで出世していますから、弥助も木下姓を名乗る相応の地位にあったと思われます。
つまり、幼名:万丸の秀次は、裸足で田畑を駆け回るハナタレ小僧ではなく、れっきとした武士の子息がスタートだったという事です。
成務元年(131)創建という、とてつもなく古い歴史の日牟禮八幡宮
八幡山の山頂にあった八幡宮奥宮を麓に遷して、跡地に築城されて八幡山城、山上の詰め城と麓の居館(根古屋)に分かれる、少し古いタイプの縄張りです
まずは山上へ 比高100mですが急峻な八幡山にはロープウェイで登ります。 山腹にさしたる遺構も無いので…(^^;
三ノ丸跡のロープウェイ駅には2分で到着。 予想に反して当時の石垣が出迎えてくれます
“秀次事件”の後、この城は徹底的に破壊されたと言いますが、425年の歳月を経てもなお普通に遺っていますね…。
元亀3年(1572)、近江の横山城城代として浅井攻めを進めていた秀吉は、対峙する宮部城の宮部継潤を調略しますが、この時に養子という形で人質に渡されたのが4歳の
秀次でした。
もちろん人質としての有用性では、“秀吉の子”という扱いだったのでしょうが、30歳を過ぎて出来た唯一の子(石松丸)がまだ2歳ですから、やむに止まれぬ選択でしょうが、“危うい立場”にずいぶんな使われ方です。
継潤の養子となった秀次は宮部吉継を名乗りましたが、翌年に浅井氏が滅ぶと宮部継潤は織田軍に編入され、秀次は無事に秀吉の元へ返還されています。
豊臣一族の家系図
実子に恵まれなかった秀吉は、甥を悉く養子に入れて、後継者問題に対処しようとしたのが伺えます
養子に入ったタイミング 実子の誕生と死、信長の子の貰い受けも絡んで、その地位は不安定でした
天正3年(1575)、畿内に威を張っていた三好、松永が信長に降伏すると、三好家の重臣で阿波に勢力を持っていた三好康永は、秀吉に近付いた上で信長に贈り物攻勢を掛け、自身の生き残りを画策します。
この作戦はまんまと成功し、名茶器『三日月の茶壷』を手にした信長はたいそう喜んで、康永を家臣の列に加えると共に、阿波の領有をも認めてしまいました。
この過程で康永と秀吉の縁戚が結ばれる事となり、またしても7歳になった秀次が三好家の養子に入る事になったのです。
すでに秀次の弟の小吉も養子(手駒)としていますから、養子に出すのはどちらでも良かったのでしょうが、名門三好家に入るにあたっては、一族の次世代の長子でもある秀次の方が資質もあり、適任だったのでしょうね。
三ノ丸からは安土城址が間近に見えます
二ノ丸へ入って行きます 築城にあたっては、安土城の資材が多く使われた様で、石材も運ばれたのかも知れませんね
共通する野面の乱積みですが、角石はきちんと算木に積まれているので少し新しい時代を感じます
二ノ丸門の櫓台 これはちょっと荒いかな
この時点で秀吉は、三好康永を四国征討の起点と想定していた様で、上手く運べば三好家は四国を束ねる大大名に納まり、いずれその家は親族の子が継ぐ…。
秀吉は自身の織田家中での立身と一族の繁栄を想って、そんな青写真を描いていたと思われます。やはり只者ではありません。
しかし織田家の四国征討方針は明智光秀が窓口で主導し、土佐の長曾我部元親を支援して成し遂げるという既定路線があり、信長も決裁していました。
三好康永の事はそれを根底から覆す事であり、光秀の遺恨は本能寺の大きな遠因となるのです。
本丸へと登って行きます 石段は大きく改変されてはいますが、周囲の石垣は当時のまま。
本当に城割りされたのか? 不思議です。
本丸表門脇の櫓台ですが、これ雰囲気ありますね。
虎口門跡には端龍寺の山門が建っていました。
三層天守があったという本丸には、瑞龍寺本堂が建っています。 この寺は日秀尼が息子たちの菩提を弔う為に、京都西陣に建てましたが、昭和の中頃にこの地に移転しました。
弟の身勝手に振り回された息子たちの哀れを想うと、悔み切れないモノがあった事でしょう。
話が逸れましたが、三好家に入った秀次は三好信吉と名乗りを変えました。
実父の木下弥助も、姓の無かった百姓の子伜が名門小笠原氏の流れを汲む三好を名乗れる事を喜んで、以後は自身も三好吉房と名を変えています。
本能寺の変は7年後の秀次が14歳になった年に起こりました。
-つづく-