今週からは、先週登城した南近江の諸城をアップします。
近江の城 長光寺城 登城日2020.03.11
別名 瓶割山城
形式 連郭式山城
築城年 鎌倉中期
城主 佐々木四郎政堯、柴田勝家
廃城年 天正4年(1576)
遺構 郭、土塁、石垣、堀切、井戸など
所在地 滋賀県近江八幡市長光寺町
長光寺城は六角氏の観音寺城の南6㎞にある瓶割山の山頂にあった18支城のひとつで、京阪方面を睨む城だったと思われます。
湖東の田園地帯に佇む瓶割山 標高234m、比高120mの独立丘です
登城口は北麓にあり、妙経寺の駐車場をお借りしてクルマを停めると…
寺の東隣りにある日吉神社の参道から入って行きます
神社入り口の看板より 山上の三つの尾根に拡がる連郭式の縄張りです
鎌倉中期に佐々木氏が築きましたが、観音寺城と同様に寺院が城に変わった事が城名から察せられますね。
長光寺城が史料に出て来るのは応仁2年の事で、佐々木四郎政堯が主君の佐々木重頼から細川勝元方に寝返って、城に籠った…とあります。
この四郎政堯とはたぶん近江守護の六角政堯の事で、将軍の加減で二転三転した守護職ですから、京極政経や六角高頼との政争なのでしょう。
社殿の右手奥に登城口がありました
登城路は西側の尾根を辿っていますから、大手道ではなく、近世に整備されたものか
山腹には特に遺構は無く、15分ほどで山上が見えてきました
辿り着いた場所は一の郭と二の郭の間の堀底 一の郭の北面には石塁が積まれていますが、柴田勝家によるモノでしょう
永禄11年(1568)、織田信長の上洛戦に敵対した六角氏は大敗を喫し甲賀に退いたので、長光寺城も信長の管理下に移った様です。
2年後の元亀元年、朝倉討伐の最中に浅井氏に離反された信長は、長光寺城に柴田勝家を入れ、近江での体勢の立て直しを図ります。
これに対し、甲賀に閉塞中の六角義賢は浅井、朝倉に呼応し兵を挙げ、近郷の勢力を糾合して4,000の兵で長光寺城を囲みました。
一の郭は本丸と思われる最大の郭で…
400坪ほどの平場は 山城にしては大規模ですね
琵琶湖、比叡方面遠望 その手前に八幡山がよく見えますが、繖山(観音寺城)は木立に隠れて見えません
一の郭の北側の土塁下に井戸の遺構がありましたが、他に水の手の痕跡は確認できませんでした
手勢800で籠城した勝家でしたが、長光寺城には水の手が少なく、援軍を待つ余裕はありません。
意を決した勝家は三つの水瓶に残った水を兵達に与えると、自ら瓶を割って“決戦の時”を示し、山を駆け下りて六角勢に攻め掛かりました。
不意を衝かれた六角勢は300余名が討ち取られ、堪らず石部城まで退却します。
この戦いのターニングポイントとなった勝家の行動は信長から激賞され、その後の“瓶割り柴田”の異名になる訳です。
翌日、佐久間盛信勢が合流した柴田軍は石部城に攻め寄せ、野洲河原で迎え撃った六角軍でしたが、800余名を失う大敗を喫して再び甲賀へと落ち延びました。
以後も長光寺城は織田方の城として機能し続けましたが、近江が平定され安土城が築かれると廃城になりました。
また、地蔵や五輪塔も至る所に見られ、築城前に寺院があった事を物語っています
北尾根の三の郭手前の北斜面にあった枡形 六角時代の大手口か?
三の郭は土塁が巻いた戦時の遺構 勝家が整備した郭かも
柴田勝家といえば、ドラマでは最初から信長の筆頭重臣だったイメージで捉えられがちですが、実は出世の過程は秀吉や光秀とほぼ競合しています。
というのも、信長VS信行の織田家の内紛で信行を担いだ勝家は、信長に赦されるも重用される事はなく、桶狭間にも美濃攻めにもその名が見えないほど冷遇されていました。
勝家が表舞台に登場するのは信長の初上洛直前の事で、武将の能力に長けていたのに加え、持ち前の生真面目さ、誠実さで懸命に奉公し続けた結果、やっと信頼を得て重用され出した…という事でしょう。
次は一の郭に戻り、南尾根の二の郭へ向かいます 堀底には土橋がハッキリ
どうやら此処も寺院の敷地だった様ですね
二の郭が瓶割山の最高所みたいです
二の郭南側土塁に遺る腰巻き石垣
長光寺城での戦いは、勝家の能力と性質が如何なく発揮された戦いです。
合戦の帰趨は必ずしも兵の多寡ではなく、タイミングとモチベーション。
山上に籠った勝家は五倍もの六角勢を見下ろしながら、急所となる場所と油断ができるタイミングを測っていたのでしょうね。
それらが揃ったところで、“瓶割り”パフォーマンスで兵の士気を高めると、一丸となって攻め下りて、一気に勝負を決めた。
いかにも信長好みの勝ち方です。