丸山城で述べた様に、織田信長によって乗っ取られた伊勢北畠氏。

しかしその過程は必ずしも容易ではなく、北畠一族はあらゆる手段で抵抗を試みたのも史実です。

そんな抵抗の最後の舞台となった五箇篠山城を訪れました。

 

 伊勢の城  五箇篠山城 三重県 登城日:2020.02.19

 

 

 城郭構造  連郭式山城

 築城主    野呂氏隆

 築城年    鎌倉中期

 改修者       安保直親、北畠具親

 主な城主  野呂氏、五箇氏、安保氏

 廃城年    天正11(1583)

 遺構          輪、土塁、堀切

 指定文化財 町史跡

 所在地   三重県多気郡多気町朝柄

 

 

 五箇山城は櫛田川中流域の小盆地にある比高64mの独立丘の山上にある典型的な中世の山城です。

 城の始まりは、鎌倉初期に上野国から移って来た野呂氏隆によるとされますが、野呂氏も鎌倉幕府により関東から大量に赴任した地頭の一人だったのでしょうね。

 

縄張り図 山上のみに展開する典型的な中世山城です 水の手がネックですね

 

大手は南側の麓で、近年に運動公園が整備され、図書館も併設されています

 

その図書館の駐車場脇に登城口があり、至極便利な城です

 

登城路は手摺りもあって、より多くの人が登れる様になっていますが、城マニアにはちょっと過剰な整備

 

 

 鎌倉幕府滅亡から観応の擾乱にかけての戦乱で、この城は北畠氏被官の五箇氏が支配する様にになった様ですが、五箇氏も応仁の乱終盤に北畠氏に叛いた為討伐され、再び野呂氏が城主に帰り咲いた様です。

 

 永禄12(1569)の織田信長の侵攻では、北畠氏は主力を大河内城に集めて籠城戦を展開しますが、野呂氏は伊勢二見へ出陣しました。

 おそらく、織田方に寝返った鳥羽の豪族:九鬼嘉隆に対峙する為と思われますが、伊勢大淀で奮戦中に背後の国人衆が寝返って攻め寄せた為、当主の源実以下、大半の一族郎党が討死にし、野呂氏は滅亡します。

 

 主を失った五箇篠山城には、北畠の臣:安保直親が入って守ったそうですが、間もなく大河内城が和睦開城となったので、一旦廃城放棄されました。

 

5分ほどで一旦腰曲輪の平場に出ます 手摺りはここでお終い

 

ここから見る西斜面には桜が植えられていて、メンテの道路が気になりますが、遺構のあるエリアではない様です

 

折り返して、もう少し登ります

 

最初に現れた小さな帯曲輪 溝は何だろう?

 

細道で繋がる北面の帯曲輪は、まとまった広さがあります

 

 

  天正4(1576)、北畠具教が信長によって三瀬谷館で殺害され、主だった北畠一族も同時に襲撃されて“根絶やし” になると、唯一出家して奈良興福寺に居た具教の弟の具親が還俗して伊勢に戻り、旧臣を集めて森城で再興の旗上げをしました。

 しかしこの時は北畠(織田)信雄の軍に鎮圧されて、山伝いに辛うじて逃げ延びた具親は将軍:義昭を頼って備後鞆へ落ち延び、再起を図ります。

 

 天正10(1582)、信長が本能寺に斃れて畿内が混沌とすると、“好機到来”を察した具親は安保直親の手引きで伊勢に戻り、再び旧臣を集めて北畠再興のを挙げます。

この時に拠点としたのがこの五箇篠山の城址でした。

 

帯曲輪から見下ろす斜面はかなり急で、逆茂木を並べるだけで防げそう

 

頂上の主郭に着きました 土塁が巻いた50坪ほどの郭です

 

西方向の街道は、三瀬谷から紀州へと続きます

 

北方向の街道を行くと、多気御所・霧山城から伊賀へ抜けて大和へ至ります

 

主郭の東には、この城の一番の見所の二重堀切がありますが、篠藪の中(^^;

 

 

 具親は荒れ果てた城址を応急的に整えて、集まった旧臣200余名と近隣の城塞を襲撃しますが、信雄が討伐の軍を向けると城に籠って籠城戦となります。

いは2日間続きましたが、衆寡敵せず、具親の兵は大半が討死にして落城しました。

 

 具親は夜陰と混戦に紛れて城を脱出しますが、この陰には夫人が具親の甲冑を着て敵兵の眼を集めている隙の脱出だったそうです。

 城を落ちた具親は伊賀に潜伏してなおも機会を伺っていました。

 

篠竹の繁茂に整備が追い付かないのでしょうか? さすが篠山城です(^^;

 

東の尾根に続く連郭は、藪コギで見学します

 

東へは3つの郭が連なりますが、いずれも立派な堀切で仕切られています

 

そして東端は10m以上ある高い切岸になって終わっていました。 織豊期の実戦に供した城である事を物語っていますね。

 

登城路に戻る途中に偶然見つけた正規の大手道 本物の遺構は藪の中に保存されている様です(^^)

 

 

 天12(1584)、羽柴秀吉によって信雄が南伊勢を取り上げられると、伊勢松ヶ島には近江から蒲生氏郷が移封して来ます。

 新領地の早期の人心掌握を重視した氏郷は、北畠具親を客将として呼び寄せたので、北畠氏の再興も成るかに見えましたが、僅か2年後に具親は病没してしまいます。

 

 具親には嗣子が無かったので、これで北畠嫡流の血は絶え、再興の夢は永遠に失われてしまいました。