日本外史で有名な江戸時代の歴史家:頼山陽の著述の中に、

家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ヶ原にあり、関ヶ原にあらずして小牧にあり…』

という一文があります。

 割と近場にありながらも、遠回しに見るだけで訪城が後回しになっていた小牧山城に登城して、“頼山陽の意” を改めて考えてみました。

 

 

日本200名城 №149 小牧山城 愛知県 登城日:2020.02.13

 

 

 別名    小牧城 

 形式    平山城

 築城年   永禄6年(1563

 築城主   織田信長

 城主    織田信長、徳川家康

 廃城年   天正12年(1584

 遺構    郭、土塁、石垣、堀

 文化財指定 国の史跡

 所在地   愛知県小牧市堀之内1丁目

 

 浄土宗寺院があった小牧山に、織田信長が築城したのは永禄6年で、桶狭間で東からの脅威を排除した3年後、長年の宿敵であった美濃斎藤氏との決戦に備えての築城であったと言われます。

  城が出来ると信長は清洲から居城を移していますから、木曽川のより上流のこの地が美濃攻めには好都合だったのでしょうね。

 

 そのせいか、僅か4年後の永禄10年には稲葉山城を攻略し、斎藤氏を滅ぼした信長は居城と城下の機能をそっくり稲葉山に移し、新たに“岐阜”と改名して天下布武への道を突き進みます。

 それで廃城となった小牧山城は、4年間という寿命の短さも手伝って、“急拵えの仮住まい”だと思われていましたが、近年の調査研究の結果、地中にあった遺構の殆どが信長に依るものであり、当時としては本格的な築城であった事が判っています。

 

資料館にある信長時代の小牧山城図 北東は湿地だったのか、家臣屋敷が外郭になっていますね 

 

安土城に繋がる直線の大手道 城内に攻め込まれたら『是非に及ばず』

 

 

 山に還っていた小牧山城が再び陽の目を見るのは、17年後の天正12年(1584)の事です。

信長が本能寺で斃れ、実質の跡目争いだった“賤ヶ岳の戦い”も終わり、勝者の羽柴秀吉が第一人者に成っていました。

 秀吉は、天下人となる総仕上げで、信長の二男:信雄に圧迫を加えており、窮した信雄が頼ったのは、織田家の同盟者で、今も秀吉に次ぐ強大な勢力を持っていた徳川家康でした。

 

 家康は北条、長宗我部、佐々、雑賀衆らと秀吉攻囲の共同戦線を画すと、2万の兵で尾張に出陣し、信雄の居城:清洲城へ入りました。

 この動きに秀吉は、いずれ斃すべき徳川もこの機会に一挙に殲滅すべく、10万の大軍で尾張を包囲し、池田恒興が犬山城を落とすと、ここを本陣としました。

 

山上の主郭部分には大量の石垣が使われていた痕が発見されています この山は岩山ではないので、運び上げられたのですね。

 

天守建築は無かった模様ですが、3層の模擬天守が建っています あいにく工事中で、最上階には入れませんでしたが…

 

北側の正面に金華山が見える事が、選地の目的を物語っています

 

 

 秀吉と対決すべく、家康・信雄連合軍が陣所に選んだのが、8km南方に位置する小牧山の城址でした。

 小牧山に入った家康は、城址に急造の陣城を整えて篭ります。

その兵力は信雄の兵も含めて多くても3万ほどと言われますが、戦上手の家康が態勢を整えるとさすがの秀吉も迂闊には手が出せません。

 遠巻きに一ヶ月の睨み合いが続き、その間にも小牧山城には土塁が構築され、周囲には三重の堀が穿たれて、益々難攻不落の体を成して行きました。

 

  一方では家康に味方した長曾我部らの動きが各地で起こり、焦った秀吉は一計を案じ、家康の “おびき出し”を図ります。

別動隊が徳川領の三河に侵攻し、暴れ回れば家康も救援に戻らざるを得ないだろうから、出て来た所を数に任せて殲滅するというものです。

 

家康が改修した小牧山城図 周囲を水堀が巡り、大手の巨大馬出しが大きな変化点

 

この時点で信長の石垣も残っていた様ですが…

 

名古屋城築城時に転用されたか?

 

 

 かくして、羽柴秀次を大将に、池田恒興、森長可、堀秀政ら2万の隊が編成され、三河へと発進しました。

 この動きが伊賀衆によって家康に伝えられたのは1日後の事で、家康はその夜には夜陰に乗じて15千の兵で小牧山城を抜け出して、秀次勢の後を追います。

 

 おびき出し作戦は成功した訳ですが、なぜかこの報が秀吉に伝わるのにかなりの時間が掛かってしまいます。

 一方の秀次の別動隊の進軍は緩慢で、三河に入ったばかりの長久手に着くまでにまるっと2日を要しています。

 長久手で休息(仮眠)していた秀次勢に家康が追い付いたのは城を出た翌未明の事で、予期せぬ事態に秀次は逃げるのが精いっぱいでした。

 そして家康の出現を知った与力の諸将が引き返して激戦となる中で、池田恒興・元助親子、森長可など名の有る武将が数多く討死にしてしまいます。

 

大手馬出し北側の土塁はキレイに復元されています 後方は小牧市役所

 

山裾の曲輪は広大で、万単位の兵馬が居た事が想像できます

 

 

 家康の出撃と長久手での敗報をほぼ同時に知った秀吉は、手元の精鋭2万で長久手に向かいましたが、家康は伏兵でその進軍を足止めし、隙間を縫って小牧山城に戻ります。

 後に“小牧長久手の戦”と呼ばれる合戦のあらましですが、兵力の多寡に反して、戦意や機動力、団結力で格段に上回っていた徳川軍。

秀吉と家康の唯一の直接対決は、家康の完勝でした。

 

  これ以降、戦う事、負ける事を怖れない家康を軍事で滅ぼす事を諦めた秀吉は、№2の待遇で味方にする事で天下人に就きましたが、家康単独では強大な力を温存・強化できた結果となり、関ヶ原~大坂の役に繋がって行きます。

 

小牧長久手の戦いでの家康と秀吉の動き 情報が筒抜けになる敵領での軍事行動は“迅速”が鍵です

 

 かつて武田信玄の進攻を受けた家康は、勝てない戦いに敢えて臨み、ボロ負けする事で信長の元で生き残りを果たしましたが、機会を的確に捉え、持てる力を集中する知力と滅亡をも怖れない胆力がもたらした家康の天下という事で、象徴的な戦いの舞台になった小牧山城です。