足掛け3年目に入った熊野古道伊勢路歩き、伊勢神宮をスタートして、新宮の速玉大社まで、少しずつリレー形式で歩いています。

 

 2020年の最初は、晴天無風の条件に恵まれた11日の土曜日、全コースで最大の難所“八鬼山越え”に挑戦しました。

 

 

 

 ゴールのJR三木里駅にクルマを停め、電車で3駅戻って尾鷲駅からスタートします。

 

 久しぶりに歩く尾鷲の街ですが、ここも例外なく過疎化が進む町です。

店舗の殆どは北の外れの国道沿いに集中していて、街中の活気の無さは深刻ですね。

*市街地なのに尾鷲駅前以外の古道沿いには、コンビニ等の店舗は一切ありませんから要注意です

1~2年のうちに高速道路が開通すれば、その国道沿いも閑古鳥が鳴きそう…。

 これまで歩いて来た紀北町や大紀町では、それでも活性化の仕掛けを感じましたが、尾鷲市の“抗い”は何なんでしょうか?

残念ながら感じられませんでした。

 

土井家住宅の明治の洋館は『子供くらしの館』になってる筈ですが、閉鎖されていました。

東の諸戸、西の土井”と称された山林王の隆盛も今は昔です。

 

『郷倉』は年貢米を集積した倉で、和歌山へは船で運ばれました。 遺産は資源として活かしたいものです。

 

熊野古道のハイライトの『馬越峠』と『八鬼山越え』に挟まれた『やのはま道』 ここを“宿場”とすれば、アクティブな滞在型のレジャーが提案できると思うのですが…。

 

尾鷲のシンボルだった火力発電所ももう操業していない様です。

 

そうこう考えて歩いているうちに、八鬼山が近付いて来ました。

 

 

 いよいよ八鬼山の峠越えへと入って行きます。

八鬼山がなぜ最大の難所なのかと言えば、尾鷲の海辺から標高647mの山頂へ、そして三木里の海辺へ、この上り下りを直距離3kmほどでやってしまう急坂にあります。

*実歩行距離は6.3km

 なんでこんな場所に道を付けたのか?…というと、他に無いんですよねぇ、通す場所が(^^;

八鬼山越えが使われなくなったのは、昭和32年だそうですから、ついこの前の事ですね。

 

八鬼山への道標  道の有りそうな山容ではない為、道に迷う旅人が多く、民謡:尾鷲節の一節が刻まれています ♪ままになるならあの八鬼山を 鍬でならして通わせる… 道が不便ゆえの悲恋を謡っています

 

登山口に着きました ここから6.3kmが世界遺産に登録された石畳の峠道です さぁ行くべ!

 

最初は田圃の中の長閑な風景なのですが…

 

林間に入ると表情は変わります こんな巨石がゴロゴロしていて、八鬼山が岩山である事が判ります

 

これなら、石畳の材料には困りませんね

 

 

 その昔は、街道の難所に付き物なのが、盗賊と野生動物です。

それに、旅人の殆どは敬虔な巡礼者であり、熊野の極楽浄土を目指す人は体に病を抱えた人も多かった様です。

 そんなこんなで、この八鬼山の山中で無念にも力尽きた人は多かった様で、道沿いには沢山の供養塔が建っていました。

そんな身寄りのない旅人の死は、土地の人達が故郷に報せると共に、私費で懇ろに葬り供養したのだそうです。

 

行き倒れ巡礼者の供養塔  この塔は常陸国筑波郡伊奈村(現:つくばみらい市)の武兵衛さんの碑です。

安政2年4月ですから、江戸の大地震の半年前ですね。

 

次第に坂道の斜度が上がってきました。

 

さすがに、こんな道が1時間も続くと息が上がってしまいます。 100m毎に休憩しながら登ります(^^;

 

極めつけの七曲り 吸収できない斜度はつづら折れで登ります… もう限界(*_*;

 

…と感じた頃に急坂は終わり、蓮華石・烏帽子石があります “お疲れさん”的な存在で、旅人もこの前でホッと安堵した石だそうです

 

も少し登った九鬼峠

 

左:くきみち、右:みきさとみち 熊野古道は三木里へ行きますが、九鬼は九鬼水軍発祥の地です

 

 

 熊野古道は“巡礼の道”ですから、旅人は何かしらの“想い”を持って歩いていた事でしょう。例えば、不治の病を発した人は、“今死ぬ訳には行かない!”という気持ちを神仏の加護に託すべく、まさに命懸けの真剣な旅だったのです。

 

 不便の無い現代に生き、いつ死んでも何の不都合も無い身で、運動がてらの物見遊山で歩いてる者が、少しの難行で音を上げてたらダメですね(^^;

ここ数回、巡礼者の真剣さに思いを馳せるのを忘れていました…。

 

さらに登ると、『あっ、ポツンと一軒家!』 ではなく、荒神様のお堂がありました。 建て替えたばかりですね

 

山頂間近の此処にも茶屋があった様です 茶屋は山頂と中腹の三ヶ所にあり、旅人を助けたそうです

 

山頂の八鬼山峠です

 

すると、道端に山頂の三角点が… いくら険しい山でも、山頂を通らなくても…

 

と、思うのですが、この平坦な尾根道を歩く事が目的だそうで、急坂に耐える区間と休める区間を交互に作る事で、早く楽に通行する先人の知恵なんだそうです

 

尾根道の脇に広場があり、展望台になっていました

 

麓の九鬼浦と熊野灘が一望できる絶景! 海抜640mあれば水平線で地球の丸さを実感できます

 

 

 さて、残り半分の3.1kmは下るだけです(^^♪

だが、しかし… 石畳の下り坂は一筋縄では行きません。

滑るから脚の置き場に細心の注意が必要で、膝の関節に容赦なく負担が来ます。

 

 江戸時代の紀州藩では、殿様の巡視や幕府の巡検使が何度も通ったそうで、殿様や幕閣は当然の様に自ら歩く事はなく、駕籠を使います。

駕籠を担ぐのは、道に慣れた地元の人達の賦役であり、この道での駕籠は…厳しいと思います(^-^;

 転がすと首が飛ぶし、地元ではそれが最大の難事だった様ですね。

 

石畳の下り坂は冬季五輪の滑降コースみたいです

 

さらに下がって湿気のある樹林では容赦なく苔が生えてて、ズルズル。  草鞋履きじゃどうにもならんだろ(^-^;

 

精も魂も尽き果てたか…と思う頃に、茶屋跡がありました。 上手く出来てる

 

この茶屋は、よく繁盛したでしょうね(^-^;

 

茶屋の先の急坂は、丸太が段差を大きくし、足の置き場をさらに難しくします 膝が痛い!

 

難行苦行の末、やっとの思いで6.3kmを踏破しました

 

 

 八鬼山越えは"最大の難所”の評判通りに手強い峠でした。

しかし、苦しんで此処を踏破出来た事は大きな満足感となって残っています。

きっと全コース踏破した後も、八鬼山越えを経験せずして熊野古道を語る勿れと思っている事でしょうね。

印象的な良いコースでした。

 

 

あと4回…ですね。

 

海に出ました(^^♪

 

振り返って… あのてっぺんから下りて来たんだなぁ

 

三木里の海は、結婚前の夏に二人で来た思い出の場所でもあります(^^;

 

 

おわり