ランチでエネルギーを補給した後、馬越峠(まごせとうげ)へと向かいます。

 

沿道に咲いていました この時期に(^^;

 

専用駐車場には“入り口だけ体感する”人達の沢山のクルマが… それでも『熊野古道を歩いた!』気になるんでしょうね(^^; 

 

入口30m程は観光用に造られた石畳で、古道は上の道 ちょうどデート感覚の若いカップルが登って来ました

 

 

 熊野古道伊勢路の全行程の中で、最も往時の姿を忠実に留めていると言われる馬越峠。

常に観光ポスターや案内パンフの表紙を飾り、熊野古道の顔となっています。

 訪れるハイカーもダントツに多くて、常に誰かいる“観光地化”された感もありますが、軽装で立ち入る者は拒む様な箇所もあり、昔の旅の厳しさを手軽に体感できる場所でもあります。

 

工事は地元の“便ノ山衆”が担当し、石はすべてこの山中から伐り出されたモノだそうです。

 

石が重く大きいから、松の根も共存するしかありません

 

10分ほど登った所にある地蔵さん 旅の安全祈願に建てられたものでしょう

 

傍にきれいな沢水も流れています

 

 

 なぜ馬越峠がその景観を維持できているのか…というと、峠道の大半に敷き詰められた石畳に依るところが大きいと思われます。

 石畳といっても、ベルジャンロードみたいな拳大の小石ではなく、平均50cm四方くらいの大きく重い石で敷かれていて、それが雨水での流失や樹木の根による破壊を抑えているのは間違いありません。

 

地蔵を過ぎると、石畳は斜度を増して行きます 雨の日は相当に滑るみたいなので、草鞋履きの時代は本当に危険だったでしょうね

 

さらに斜度が増すと、さすがに石畳も階段状に敷かれています

 

ちょっと拓けて、北面の景色が見えました 紀伊山地は緑一色!

 

さらに登ると少しの間は地道になり、切通しが… 馬越峠の頂上(325m)に到着です

 

峠には享保年間から茶屋があり、明治中頃まで営業してたそうですが、現在は石垣が残るのみで他は藪に覆われていて…

 

尾鷲方面の眺望もほとんど利きません

 

 

 他の峠には殆ど見られない石畳の整備を始めたのは、江戸初期の紀州藩だそうです。

『熊野詣りは紀路と伊勢路のどれ近し、広大慈悲の道なれば、どちらの道も遠からず…』と謡われた様に、江戸が中心となった時代以降は、伊勢→熊野の参詣需要が高まり、伊勢路の重要度が増しました。

 

峠から一望できる熊野灘を期待していたので、急遽オプショナルツアーで標高差200mの天狗倉山山頂へ寄り道します

 

だがこれが、完全に“登山”の厳しい道のりで、最後の山頂の大岩へはコレを登ります(^^;

 

そしてまた岩の上は足のすくむ絶壁!(*_*;

 

しかし山頂からの尾鷲市街と熊野灘の見晴らしは、それらの苦行を補って余りある絶景でした。

 

 

 和歌山を本拠とする紀州藩も、領地は東紀州から伊勢にまで及んだので、領内を巡検管理し流通を促進するという内政上の理由からも、街道整備は重要だった訳ですね。

その為、馬越峠の道幅は紀州藩の駕籠通行基準の1間半(273cm)で造られています。

 

さて峠に戻って下りです 石畳の下り坂って想像以上に歩きにくく、慎重に降りて行きます

 

全国有数の雨量を誇る尾鷲の南斜面ですから、石畳も雨に削られ流れてる箇所がたくさんあって…

 

石畳が終わる所までには、随分と時間をロスしてしまいました。 電車 間に合わないなぁ

 

ちょうどここに道標があって、伊勢から100km地点ですね。

 

石畳は終わったものの、1kmあまり続くダラダラの下り坂が疲れた膝にけっこう堪えます(^^;

 

 

 明治になって、熊野古道の峠道には広くて傾斜の少ないバイパス(明治道)が造られ、やがてはトンネルが掘削された国道が通って廃れて行くのですが、代替ルートの採れない難所だった馬越峠は最後まで残り、なんと大正9年まで県道として活用されていたそうです。

 その間も補修整備は続けられていた訳で、先人のそのたゆまぬ努力こそが“人類の遺産”として認められ、現在も目にする事が出来る訳です。

 

やっと平坦地になって振り返ると、天狗倉山が。 あのてっぺんから降りて来たんだなぁ…

 

本日のゴール 尾鷲駅です。

予定の電車には間に合わず、次までは2時間待ちの過疎路線なので、クルマのある船津駅へは、このシリーズで初タクシーを使いました。

 

現在ここまで歩きました