田辺城の次は日本海沿いを東へ、丹後から若狭へ入って小浜に着きました。
室町後期の若狭国守護:武田氏が後瀬山城を築いて本拠とした場所ですね。
若狭の城 後瀬山城 福井県 登城日:2019.6.14
別名 武田氏城
城郭構造 山城
天守構造 なし(不明)
築城主 武田元光
築城年 大永二年(1522)
主な改修者 丹羽長秀、浅野長政
主な城主 武田氏、丹羽氏、浅野氏、木下氏
廃城年 慶長6年(1601年)
遺構 石垣、土塁、空堀、郭
指定文化財 なし
訪城の観点 守護大名の居城の威容
見どころ 山中に多数点在する郭塁の構造
所在地 福井県小浜市伏原
後瀬山城は標高168mの山城です。
しかも山麓の根古屋(居館)とは分離した、戦時に特化した山城ですから、険しい地形を最大限活かした縄張りになっています。
居館の背後の後瀬山の尾根筋に郭を重ねて配置し、谷間へは畝上に竪堀を穿った典型的な戦国の山城で、見どころには欠きません。
しかし、この初夏の季節に縦横無尽に斜面を踏破できる訳も無く、主郭跡に建つ愛宕神社への参道以外には整備された道もない、厳しい条件での限られた登城となりました。
現在、居館跡が史跡公園として整備中の模様で、これが完成すれば西側からの本来の大手道も整備されるでしょうから、程なく後瀬山城の遺構を堪能できる日が来るでしょうね。
日本城郭体系より縄張図 大規模な山城ですが、遊歩道があるのはごく一部だけ
若狭武田氏は甲斐武田氏と同じ、河内源氏の一族です。
武田氏は平家討滅を頼朝と競った経緯があり、鎌倉初期には甲斐国のみの守護でしたが、承久の乱の戦功により安芸国守護が加えられました。
安芸の武田氏が分家として自立するのは南北朝の争乱後の事で、武田宗家7代当主:信武の長男:信成は南朝(甲斐守護)となり、二男:氏信は北朝(安芸守護)に分かれて家を守ります。
乱後は安芸の武田氏が甲斐国の守護職も与えられて支配する事となりましたが、実際には庶子と言われる信成の子孫が代官として甲斐に残り、信玄へと繋がります。
しかし時代が下がると両国の守護職ともに足利一門の細川氏や一色氏に取って代わられるに至ります。
R27後瀬山トンネル東入口のガード下にある愛宕神社社務所の駐車場を使わせて貰います
神社の鳥居をくぐると、急斜面を階段で登って行きます。 この道は登城路ではなく、後世の参道ですね
そんな状況でも、安芸武田氏は室町幕府によく仕えたので、5代目の信栄に6代将軍:足利義教より若狭国の守護職が与えられました。
信栄は領地を弟の信賢に譲り若狭に移ったので、ここに若狭武田氏が成立し、しかもこの家が武田氏の嫡流だったのです。
若狭に入った信栄でしたが、中心地の小浜は一色氏の勢力が強く、大飯郡高浜に居館を置いたと言われます。
翌年、信栄は病死しますが、安芸から信賢が移って跡を継ぎました。
信賢は一色氏残党を掃討する傍ら、幕府の出兵要請に良く応えたので中央の信頼を得て行きます。
この経営方針は子の国信、孫の元信へと受け継がれ、曽孫の元光の代には丹後の守護も兼務する程の勢力を持ち、最盛期を迎えました。
元光は小浜への進出を果たし、後瀬山の麓に居館を建てて住み、背後の山塊に壮大な詰め城を築きました。
これが後瀬山城の始まりです。
道は尾根筋を走り、小郭が階段状に並びます 典型的な戦国の山城構造です
この頃中央では、管領:細川高国が威を振るい、将軍:義稙を追放し、義晴を12代将軍に据えるなど、政権を独占していました。
どうやら高国の軍事的背景となり、同心していたのが元光で、丹波、丹後、近江などへしきりに侵攻しては、国人達の反感を買っていました。
細川氏の高国と晴元との間で内紛が起きると、元光は兵を率いて高国の元へ参じますが、晴元側の三好・波多野軍に惨敗して若狭へと逃げ帰ります。
この戦いを機に中央の実権も細川晴元が握り、やがて重臣の三好長慶が台頭して行く訳ですが、若狭武田氏も周辺の豪族から反撃を受け、家臣には寝返る者も出て、次第に権勢を失って行きました。
元光の跡は嫡男の信豊が継ぎ、その子の義統へと繋いで体面は守るものの、家中には内紛や離反が相次ぎ、もう外征する余力は無かった様です。
その頃に15代将軍になった足利義昭がまず頼ったのが武田義統でしたが、あまりの惨状に義昭は早々に見切って、朝倉氏の庇護を受ける事にしました。
永禄11年(1568)、その朝倉氏に攻め込まれた武田氏はついに領国の若狭を奪われてしまいます。
当主になっていた武田元明は越前に連行され一乗谷に居住させられました。
二ノ郭入り口は空堀を伴っており、石段の痕跡が顕わでした
二ノ郭からは僅かに北側の若狭の海が見渡せます 左上に小さく見えるのは関電大飯原発
織田信長の朝倉討滅で救出された元明は若狭へ帰還を果たしますが、信長からは3千石の旗本として遇されたのみで、若狭国は丹羽長秀の領地となりました。
本能寺の変が起こり、光秀に合力を求められた元明は、近江佐和山城を落とすなど、失地回復に奮戦しましたが、光秀の死でその努力も水泡に帰し、近江貝塚で自害して果て、若狭武田氏は滅亡しました。
僅かに元明の子の義勝が京極高次に仕官して命脈を保ったと言われます。
豊臣政権下での丹羽長秀は、若狭一国に加え越前、加賀の一部など123万石の所領が与えられ、若狭経営の拠点として後瀬山城に大規模な改修を加えたそうで、山上の主郭には石垣が積まれるなど、多くの痕跡が残ります。
主郭への石段はより明瞭に残っています
主郭には愛宕神社が勧進されており、北西側(居館側)には石塁が積まれています 防御遺構より、冬場の寒風除け…ではないかな?
天正13年(1585)に長秀が死ぬと、秀吉は丹羽潰しを始めます。
度重なる軍役に難癖をつけて所領を加賀松任4万石に減らし、若狭小浜は浅野長政に与えられました。
長政が甲斐府中に転出した後は北政所の兄:木下勝俊が入りましたが、勝俊は関ヶ原の戦いでの命令違反で家康に改易されます。
徳川政権で若狭小浜を領したのは京極高次でした。
高次は後瀬山城の東の平地に新たな築城を始め、これで後瀬山城は廃城とされました。