明智光秀にとっての福知山城の位置付けですが、丹波平定が成った後の丹後、但馬侵攻~山陰方面からの毛利攻めに対する最重要な兵站基地だったのではないかと考えます。

 

 山陽路から西進する羽柴秀吉を競合するライバルと見ていた光秀でしたが、この時点で丹後の南半分は与力の細川藤孝の手によって平定されており、これから一気に但馬に攻め込む目前の布石として、福知山城は胸躍る築城(改修)であった事でしょう。

 

天守はコンクリート製ですが、外観は熊本城並みにキッチリ復元されています

 

しかしこの天守、石垣を基に設計したものだそうですが、ちょっと複雑すぎるデザインです

 

小天守も石落としが無いのにオーバーハングしてたり…やり過ぎ(^^;

 

壁を支える梁が石に載ってなく中ぶらりんなのは、木製を前提にすると有り得ないでしょう…

 

 

 しかし、丹波平定後の光秀はと言えば、石山本願寺攻めに続く和睦交渉、安土での左義長や京での馬揃えの奉行など、中央での雑務に忙殺され、本来の毛利攻めは羽柴秀吉が一手に担う不本意な事態となってしまいます。

 

 その理由なのですが、天正8年に石山本願寺攻めの司令官だった佐久間信盛が職務怠慢を理由に信長に追放されてしまうという事件が起きています。

 信盛といえば、織田家の筆頭家老の功臣で、光秀が負った中央の調整・雑務は本来は信盛の仕事だったとも言えます。

 

天守台に特に多く使われている転用石の墓石 ありゃま、罰当たりな(^^;

 

墓石に彫られた年号から、1575年以前の石が使われていて、光秀の収集は確実の様です

 

 

 つまり、信長の真意としては、田舎武士で鈍重な信盛ではなく、何かと敏くセンスの良い光秀を常に傍に置いて、中央の諸事を仕切らせたかったのではないかと思うのです。

 天正10年の甲州征伐に際しても、後詰めとして終始信長と行動を共にしており、戦闘に加わる事は一切ありませんでした。

 

 信長にすれば、環境が変化していく中で“適材適所”に他ならない人事で、光秀への信頼の現れなのですが、壮年の遅くに仕官し、戦功のみで身を立てて来た外様の光秀にすれば、戦場から外される事に大きな不安を覚えるのは判る気がします。

こうした君臣の思惑の違いが猜疑を生み、本能寺の変へと繋がったのでしょうかね?

 

銅門脇番所は城内唯一の現存建物 廃城後に天守台に建っていましたが、天守復元で移されました

 

天守窓から見下ろす銅門脇番所と二ノ丸跡、伯耆丸跡の様子 二ノ丸は完全に削平されて跡形もありません

 

 

 光秀滅亡後の福知山城は秀吉家臣の杉原家次(寧々の叔父)に与えられ、次いで丹波の国人から仕官した小野木重勝に与えられますが、秀吉恩顧の重勝は関ヶ原の戦で西軍に付き、家康に付いた田辺城の細川孝を攻めて降伏開城に追い込んでしまいます。

 しかし本戦の結果を受けて、福知山城を開城し蟄居した重勝でしたが、細川忠興の強い要求で切腹改易されてしまいました。

色んなシーンで出て来る忠興の逸話ですが、総じて言えるのは“本当に嫌な奴”ですよね(^^;

 

 徳川政権下での福知山城主は遠江横須賀3万石から有馬豊氏が6万石で入ります。

豊氏はその後8万石まで加増され、20年の治世の後に筑後久留米21万石に大幅加増移封されて行きます。

 そのの福知山藩主が総じて5万石以下だった事も鑑みて、城と城下を現在の姿に整備したのは有馬豊氏だと言われています。

 有馬氏の後は岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房(深溝)が入りますが、いずれも一代限りの短い治世でした。

 

正保絵図 現在は本丸しか遺されていませんが、連郭式の主郭を持つ広大な縄張りでした

明治期に城址に駐屯した陸軍の連隊が、演習場へ通う際に邪魔だと、二ノ丸を削り取ったそうです(--;)

 

南側の景観 瓦の紋は朽木氏の四ツ目紋ですね

 

北側の景観 城下は外堀を兼ねた土師川に沿って北へ広がっていました

 

北東の川の向こうの丘には、支城の猪崎城址が保存されています

 

 

 最後に入ったのは朽木植昌で、常陸土浦藩からの加増移封でしたが、32千石と福知山藩としては最少の藩主でした。

福知山城の天守はこの植昌によるものとなっていますが、1699年と新しい事からかなり違和感を覚えます。

 

 天守台の石垣も野面の乱積みで、戦時の慌ただしい普請を証明していますから、明智時代に天守台が築かれ、低層の櫓建物が有ったと見るべきでしょうね。

植昌はその屋根に二層の望楼を乗っけただけ…なのかも知れません。

 現状の外観復元の復興コンクリート天守の超複雑な形状を見ると、何度も増改築された感じが強くします。

以後、朽木氏は13200年の治世を経て明治維新を迎えます。

 

 

 

 【横山城の支城 猪崎城】 

 福知山盆地の平地の中心にポツンと建つ福知山城。

周囲は低い山々に囲まれていますが、まだ横山城と呼ばれた戦国時代の塩見氏の頃には、周囲の山麓には包囲する敵軍の背後を脅かす為の支城群が置かれていた筈です。

そんな支城群の中で、猪崎城と呼ばれる城址がよく整備されて遺っています。

 

 

 

 塩見頼勝の弟:利勝が城主として築かれた猪崎城でしたが、その子:家利の時に明智光秀に攻められ、本城の横山城と運命を共にした城で、現在は三段池公園の一部として史跡整備されています。

石垣を一切使わない中世の土の城で、関東の城址が懐かしく思い起こされました。

 

おわり