戦国の世と世代が進み天文年間(1532~)になると荻野氏でも後継者の質に悩みが生じて来ます。

荻野正元は嫡子:秋清に家督と黒井城を譲り朝日城に隠居していましたが、秋清の当主としての器に不安を覚え、一族の中で利発な子と評判の赤井才丸を養子に迎えました。 

 

 才丸は元服すると名を直正と改め、荻野勢の一将として活躍します。

直正は近隣の波多野氏や内藤氏との戦いで敵を圧倒し、怖れられたと言います。 

その戦いっぷりから付いた通称が悪右衛門または丹波の赤鬼』…

よほど強かったんでしょうね。

 

石踏みの段”と呼ばれる広い曲輪に着きました

 

ここは下界が見渡せて帯曲輪で守られた、重要な郭の様ですね

 

山頂までもう少しですが、ここから斜度は急になります

 

そして最後は石切り場の様な岩場を通ります 主郭に積まれた石垣はここで伐り出されたか?

 

 

 天文23年(1554)、新年の挨拶に黒井城を訪れた直正は、主君の秋清を殺害して荻野氏の家督と黒井城を奪い取ります。

 戦国の下克上の典型みたいな出来事ですが、スンナリ事が運んだ裏には、前当主の正元の意志が働いており、家臣団も望んだ上での計画的な凶行だったそうです。

 秋清は諫言する重臣を嫌って、戦いの中で敢えて見殺しにする様な事があり、求心力を失っていたらしいですね。

 

 事実、直正が当主となった荻野氏は晴れて赤井氏を名乗るとともに一体感を取り戻し、松永久秀の弟で守護代:内藤家を継いでいた長頼を攻め滅ぼすと、八上城を取り戻した波多野秀治と結んで三好氏の勢力を丹波から一掃した上で、遠坂峠を越えて但馬を蚕食し、勢力を拡げて行きました。

 この時点での赤井氏の支配する最大版図(石高)は18万石と言われますから、兵力は56千人の規模です。

 

やっと尾根上の東曲輪に到着です

 

東曲輪からは東側の園部方面が一望です ずいぶん高いなぁ(^^;

 

振り返ると、三ノ丸櫓台の石垣が  左側の階段は失われていました

 

三ノ丸壇上は意外と凹凸があります  奥に二ノ丸石垣で、左側の枡形から入ります

 

 

 丁度そんな折に起きたのが、織田信長の京への上洛と足利義昭の将軍就任でした。

反三好勢力だった直正は兄の赤井忠家、八上の波多野秀治らと上洛し、義昭から領地の西丹波三郡の領有を認められると同時に、畿内への軍役に織田信長の傘下で服する事になりました。

そして妻(波多野氏の娘)をくしていた直正は、この時に関白:近衛前久の妹を娶ったと言われています。

 

 当面は信長の武将:明智光秀に与力して丹波、丹後、但馬の平定に東奔西走する直正ら丹波の豪族達でしたが、信長と義昭の仲が険悪になって行くと反信長色を濃くして行きます。

 元亀2年(1571)、直正領の氷上郡に但馬出石の山名祐豊が攻め入る事件が起きました。

これは義昭側に傾く丹波の諸氏への牽制として信長が仕組んだ侵攻という匂いがするのですが、直正は出陣して山名勢を追い払うと、逆に但馬へ侵攻して山名氏の此隅山城と竹田城を占拠してしまいます。

 

二ノ丸は緩い傾斜はあるものの、200坪くらいの広さがあります 奥は本丸

 

本丸だけは空堀で守られていた様ですね

 

南側の土塁には全面に石垣が積まれています

 

本丸も200坪以上ありますが、若干の傾斜あり これは常設の本格的な建物が無かった事を現しています

 

城址碑には“保月城”が使われています

人が写っていませんが、主郭には5人ばかりの人が居ました。 数名の方と雑談しましたが、城探訪ではなく“手軽な健康登山”の人が殆どみたいでした(^^;

 

 

 これで直正は正真正銘の反信長勢力と認知される事となり、山名祐豊が泣き付いた事もあって、信長は丹波討伐を明智光秀に命じます。

 しかし元亀年間は義昭の信長包囲網が機能した時期であり、浅井、朝倉、本願寺一向宗との戦い、武田信玄の西上への対処で目いっぱいだったので、丹波侵攻は天正期へと持ち越されます。

この間に黒井城は全山要塞の城へと改造されたのでしょうね。

 

案内看板より 赤井直正

 

その③ につづく