丹波篠山城の最後の回です。

城内の二ノ丸、本丸を観た後、城下にも脚を延ばしてみます。

 

 

二ノ丸南端にある埋門跡 搦め手口ですが…

 

櫓台の刻印は“三左ノ内”とあります 池田輝政の通名:三左衛門の事でしょうね

 

 二ノ丸の南側には、北側の大手口の『鉄門』に正対する形で、搦手口の『埋門』が有ります。

内枡形の櫓門ですが、三面を雁木にして掘り下げ、枡形を最小にする事で、埋門の形式を採っています。

 

 これは戦時には安易に討って出る事を避け、搦手口を閉め切りにする事で防御の負担を軽くし、長期の籠城に耐えながら関東の援軍を待つ…戦略を想定した構造と思われます。

 この形式は、シンプルで攻撃的な高虎の城では見掛けない凝った造りなので、『おや?』と思うのですが、どうやら池田輝政による築造だった様ですね。

 

二ノ丸の東半分(弱)は3m程の石垣を隔てて本丸になります

 

本丸石垣の一部は露出した岩盤をそのまま活用しています 基盤の篠山は岩山だった様ですね

 

本丸入り口に変な石積みが! 急な来客で押し入れに放り込まれた洗濯物みたい

 

この積み方にどんな意味があるのかと、しばらく思案しましたが…(^^;

 

 

 二ノ丸の東側に梯郭に積み上がっているのが本丸です。

篠山城は比高差20mほどの城ですが、平山城に分類されています。

その理由は、かつてこの地には“篠山”と呼ばれる小丘があって、その山を本丸にして縄張りされたからだそうです。

 

 しかし、この笹山は固い岩盤に覆われた山で、削平工事は困難を極めたそうです。

与えられた6か月の工期はどんどん過ぎ、天下普請で集められた20余名の諸大名も困り果てて、藤堂高虎も伊賀上野や亀岡から何度か駆け付けたみたいですね。

(高虎の工区は家老の渡辺勘兵衛が代行していた模様…)

 

本丸内はだだっ広い平坦地で、青山氏を祀る青山神社がポツンとあるだけです

江戸時代も此処には多聞櫓以外の建物はありませんでした

 

南東の隅にある天守台は大きなものですが…

 

天守は断念されたので、地面に細かい細工は無く平坦です

 

四隅に櫓を配して、多聞で繋ぐ連立式天守の構想だった様ですが、櫓間が変に間延びしてしまう広さなので、設計変更の証拠と見る事ができます

 

天守台からは八上城址がよく見えます

 

 

 結局、岩盤の削平は断念され、その周囲に石垣を積んで本丸とする急遽の設計変更が為された様ですね。

 本来は二ノ丸が本丸で、南東の隅に現在より小ぶりな連立式の天守曲輪が計画されてたものの、広大なものに変わった為、本丸の呼称になったという事だと思われます。

 

 その影響は天守にも及んで、十間四方の天守台が築かれ(5層以上の天守が建つ大きさ)、

用材も準備されていたそうですが、諸大名は次の現場の名古屋へと向かい、時間切れで建てられる事はありませんでした。

*その用材を活用したのが丹波亀山城天守かも知れませんね。

 

城下に出て大手口脇の“青山歴史村”を訪ねます

 

これは八上城から移築された門の様です

 

展示物は産業に関する物が殆どでした  併設の『デカンショ館』も覗いてみます

 

デカンショ節が篠山発祥とは知りませんでしたが、盆踊りの囃子が元になっているそうです

デカンショとは出稼ぎの事だとか(諸説あり)

 

旧山陰街道に沿って歩いて見ます

そういえば子供の頃、大きな栗の品種を一律に『丹波栗』と呼んでいました(^^;

 

様々な特産品を扱う店が並びます 米以外の殖産振興の成果ですね

 

 

 元和元年(1615)、篠山城は戦場になる事なく大坂の役が終わり、八上城に居た松平康重(松井)が移動して篠山藩5万石の居城となります。

康重は11年間藩主を勤めた後、和泉岸和田へ移封となり、替わって上野高崎から松平信吉(藤井)が入って来ました。

 

 藤井家は2代30年勤めた後、播磨明石7万石に加増移封となり、跡には摂津高槻3万7千石から松平康信(形原)が5万石で入ります。

形原家の治世は5代100年に及び、寛延元年(1748)丹波亀山藩5万石の青山忠朝と交替する形で互いに移ります。

 最後に入って来た青山家は明治維新までの120年間を6代で繋いで廃藩となりましたが、4代目の青山忠裕は老中まで務めた為1万石の加増を受け、以後の篠山藩は6万石の石高でした。

 

外堀の西側一帯は下級武士の屋敷が集まる地域でした

 

廃藩で上級家臣は東京へ移住しましたが、下級の武士は笹山に残ったため屋敷もそのまま遺り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています

 

その中で安間家の屋敷は資料館として公開されています

 

安間家は青山家の徒歩武者で、12石2人扶持の収入だったそうです  必殺の中村主水の収入が30俵2人扶持(1石≒3俵)ですからほぼ同じくらい、決して裕福ではありません

 

バイトしないと小遣いに困る感じですが、仕事人はできないので、たぶん270坪の屋敷地の大半を畑にしてたのでしょうね

 

こちらは上級武士:小林家の長屋門 間口も造りも大差がありますね

 

 

 山がちな篠山盆地は米作以外の産業も特になく、凶作に見舞われる事もしばしばだった為、百姓一揆が頻発して藩財政は苦しかった様です。

 苦肉の策として農閑期の出稼ぎが奨励され、酒蔵の杜氏として灘や伏見に向かう者が多かったそうですが、都市の暮らしに慣れると百姓をしに戻らない者が出て来て、また藩の悩みのタネとなってしまいます。

そんな苦しい暮らしの一端が『デカンショ節』の一節にも垣間見る事ができますね。

 

 

篠山城 おわり