八上城から見えていた篠山城。
クルマでわずか2km余り、さすがに100名城の城ですから、案内看板が至る所にあって、城址公園駐車場まで迷う事はありませんでした。
日本100名城 №57 篠山城 兵庫県
登城日:2019.6.13
別名 桐ヶ城
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 建造されず(天守台はあり)
築城主 徳川家康(天下普請)
築城年 1609年(慶長14年)
主な城主 松平氏諸家、青山氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 御殿
訪城の観点 豊臣大坂城包囲網の本気度は?
見どころ 岩山を削って造った本丸の苦労の跡
所在地 兵庫県篠山市北新町2-3
今回のツアーで唯一の100名城です。
篠山城は江戸初期に八上城に代わって築かれた松平康重(5万石)の居城の平山城で、以後も笹山藩の政庁として明治維新まで存続した城です。
しかし、城としてのスペックはというと、優に2,30万石規模の大名の居城としてのキャパシティを備えた立派な構えの城でした。
それというのも、篠山城築城の真の目的は、豊臣大坂城を攻囲殲滅するための“付け城”的な色彩が多分にあり、徳川家康が自ら選地して天下普請での築城を指示した城なのです。
普請奉行は姫路の池田輝政、縄張り奉行には当代一の築城家だった藤堂高虎が起用されています。
篠山城正保絵図 街道は北西から南東へ抜け、北側が大手の様ですね。 シンプルな方形輪郭で三ヶ所の馬出しが特徴的です
現在の空撮 北側の馬出しは失われていますが、主郭の縄張りはほぼ残っています
三ノ丸駐車場は広く、料金は200円と関西圏にしては良心的ですが、PM4:00閉門なので注意が必要です
篠山城が竣工した慶長14年(1609)は大坂の役の5年前で、家康が豊臣家に対するプレッシャーを強め始めた時期です。
秀頼との二条城会見はこの1年半後の事で、『滅ぼすしかない…』という決断が大坂の役という形に繋がる訳ですね。
関ヶ原の10年後のこの時、潜在的脅威としての豊臣系大名は西国に追いやったものの、福島氏、加藤氏などは、秀頼を攻めるとなると、反徳川の旗を上げる危険性がまだ払拭しきれない時期です。
これに、関ヶ原で失敗した島津氏や大きな遺恨を残した毛利氏が合体すれば関ヶ原の再現になりかねず、黒田氏が天下狙いで加勢などしたら、もう目も当てられない事態ですね。
篠山築城の背景には西国の豊臣系外様大名の動向がありました
案内看板より 立体復元図
家康にとっての大坂攻めは、こうした脅威を一つずつ潰し込みながら慎重に進めなければならない最後の大事業でした。
大坂城攻囲の付け城ネットワークの中で、山陰街道沿いの篠山城に求められる機能は、攻め上って来る西国大名達の大軍を長期間足止めし、大坂表での決戦に合流させない…つまり関ヶ原の際の信州上田城の様な働きが想定されていたと思われます。
そんな観点をもって篠山城をじっくり拝見します。
まず全体の縄張りですが、外堀に囲まれた本丸~三ノ丸のエリアが城の主郭として重点整備されています。
正保絵図ではその外側に総構えらしき土塁が描かれていますが、これは城の内外を示す程度の簡易的なものでしょう。
駐車場から見る北側馬出し跡 僅かに土塁痕が認められます
北側馬出しへの土橋から見た北側外堀 郭の内外の高低差はありませんが、堀幅は十分で、郭内(右手)には掻き揚げ土塁が積まれていた事でしょう
馬出し跡は右手の建物(市役所)との間に水堀があった筈ですが、ほぼ壊滅
外堀に囲まれた範囲は約450m四方あり、現存二条城とほぼ同じ大きさです。
工事ロスの少ない方形の縄張りなのは、高虎の城の特徴ですね。
堀幅は約50mあって、鉄砲戦での撃ち下ろしに有利な最適の幅です。
三ノ丸と郭外の高低差は平城だから殆どなく、堀を開削した土砂による掻き揚げ土塁で巻かれています。
城の規模と工期から土塁構造なんでしょうが、下端は腰巻き補強されています。
横矢を掛ける出隅入隅はありませんが、絵図を見る限り土塀に折れを持たせています。
堀の水の手を切られる心配が無かった(?)のに加え、防御構造の進化の一端が見られます(残念ながら、土塀は復元されていませんが…)。
最も保存状態が良い南側の馬出し跡へ向かいます 右側が郭内ですが、ここは土塁が残っている様で段差がありますね
外堀の南西の角まで来ました 左が郭内で右が馬出し、奥に見えるのは土橋です
馬出しの出口 ここの土塁は高いです! これがオリジナルか?
内部の広さも半端ではありません、出撃に備えて溜まる兵力は千騎単位でしょうか
防御構造のもう一つの特徴は、三ヶ所の虎口に造られた巨大な馬出しです。
馬出しは昔から有る有効な防御施設で、反撃に転じるヤル気満々の“戦う城”に多く採り入れられていますが、戦いの様式が鉄砲の銃撃戦に変わって、その効力が顕著に発揮されたのは大坂冬の陣の真田丸攻防戦です。
どうやら高虎も真田信繁に劣らず効力に気付いて、いち早く取り入れていた様ですね。
城域の広さと堀幅、そして馬出し構造から、1万前後の兵が籠り、3~5万の敵の攻囲に十分に耐え、退き陣を襲って脚止めしうる城…という姿が見えて来ました。
そんな事態に家康が想定していた城将は、本多忠政か?水野勝成か?…。
《後編》につづく