園部城の次はR372を西に走り、八上城へと向かいます。
丹波でもこの地域は昔ながらの“茅葺屋根”の古民家が多く維持されています。
ゆっくり走って景色を楽しんでいると、平日の朝の8時前という時間帯もあってか、出勤の猛スピードのクルマが追い付いてきて、ガンガン煽られてしまいます(^^;。
(70km/hくらいは出せよ!て感じ…)
路肩の広い場所で先に行って貰うのですが、大半が軽自動車の若いお姉さんでした。
早寝早起きして、もっと早く家を出ましょうね。
丹波の城 八上城 兵庫県 登城日:2019.6.13
別名 八上高城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 波多野元清
築城年 永正5年(1508)
主な改修者 前田茂勝
主な城主 波多野氏、前田氏
廃城年 慶長14年(1609)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
訪城の観点 明智軍をして兵糧攻めとなった堅城の姿
見どころ 篠山盆地を一望する絶好の立地
所在地 兵庫県丹波篠山市八上上
八上城は丹波の戦国大名:波多野氏の居城です。
波多野氏については諸説ありますが、丹波に根を下ろしたのは応仁の乱で波多野秀長が細川勝元に味方し、恩賞として丹波多紀郡を受領した事に始まります。
秀長は守護代の内藤氏に仕える傍ら、周辺の国人に養子を送り込んだり、播磨の別所氏に娘を嫁がすなどして、丹波国内での影響力を扶植して行きます。
国道の春日神社入り口にあった案内看板 比高差は220m、登城ルートは沢山描かれていますが、整備されてるのは右衛門コースのみ
神社といっても小さく、駐車スペースはなんと1台分だけでした(^^;
境内もずいぶん荒れてて、応仁の乱直後の洛中を彷彿とさせる雰囲気でした
子の植通の代になると、戦国の下克上の様相は顕著になり、永正12年(1515)に八上城を築城した植通は内藤氏を討ち、守護:細川氏の勢力も一掃して丹波を統一し、戦国大名としてデビューします。
植通の子:晴通は暗愚だった様で、先を案じた植通は南に接する摂津の守護で、新進気鋭の三好長慶に娘を嫁がせ、同盟を結ぶ事で将来を担保しました。
しかしそこは戦国の世の事、享禄3年(1530)に植通が病没すると長慶は妻を離縁して、丹波侵攻の意思をあからさまに示します。
境内から登山道が始まります
すぐに削平した平場があり、前田氏時代(江戸初期)の館跡です
前田主膳とは、前田玄以の嫡男で八上藩主でした
長慶の侵攻は年中行事の様に何度も繰り返され、その都度堅城の八上城に拠って防いだ波多野氏でしたが、弘治元年(1555)の侵攻では、三好氏配下の松永久秀、長頼兄弟の猛攻を防ぎきれず、降伏開城して三好氏傘下に組み込まれてしまいます。
晴通の後の家督は嫡男の秀治が継ぎ、叔父の秀元が補佐(ここも諸説あり)する事で一族の離散を防ぎ、家臣団の結束を何とか維持していました。
八上城は三好長頼に取り上げられ、長頼は丹波守護代の内藤氏を名乗って支配者として君臨していましたが、三好氏の家勢が斜陽に転ずると波多野氏も氷上郡の赤井氏と共に反三好の旗を上げ、永禄9年(1566)には八上城と領地の奪還に成功しました。
すぐに登り坂になりますが、国の史跡だけあって整備は行き届いています 山城が…やっぱイイですね
2~30分ほど一気に登って行ったら、尾根の小郭に出ます 素人にも解り易い看板です
樹間に覗く西側の風景 もう半分くらい登った感じです
永禄11年(1568)、織田信長が将軍:義昭を奉じて上洛すると、義輝の頃から将軍与党だった波多野氏はすぐに馳せ参じ、織田氏の傘下に再編成されます。
この後秀治は赤井直正と共に明智光秀の配下となり、丹波国内の反織田勢力の討滅に携わるのですが、義昭と信長の関係が破綻すると義昭の信長包囲網に参加する事となります。
天正3年(1575)、まず赤井直正が離反して居城の黒井城に立て籠もり、これを明智光秀が大軍で囲み兵糧攻めとなりました。
ところが、明智軍の背後を波多野の軍が急襲したので、明智軍は大混乱に陥り、敗走せざるを得ませんでした。(この戦いは黒井城の回で詳細に触れます)
ここからは斜度も増し、蹴上が高くなりますが…
遺構も連続して現れて来るので、疲れを感じる暇がありません(^^;
山頂まではもう少しありますね
《後編》につづく
Yahooブログの調子でダラダラ書いてたら文字数(40000字)制限で投稿が拒否されるので、やむなく分割します。数えたらまだ5000字程度なんですけどね…。
Yahooも新参の頃はそんな“可愛がり”が有った気もするので、認知されるまでしばらくは短文・分割の投稿とします。