二日目は本格的な山城2城を含む6城を巡るハードなスケジュールです(^^;

初日の渋滞アクシデントに懲りて、前倒しで行動する事とし、夜明けとともに活動を始めて、6時には最初の“園部城”へ向け出発しました。
丹波の城 園部城 京都府 登城日:2019.6.13

別名 薗部城、園部陣屋
城郭構造 平山城
天守構造 なし(小麦山頂には三層の小麦山櫓が建っていた)
築城主 小出吉親
築城年 元和5年(1619)
主な改修者 小出英尚
主な城主 小出氏
廃城年 明治5年(1872)
遺構 石垣、堀、巽櫓、櫓門、番所、太鼓櫓
指定文化財 なし
訪城の観点 最後の最新の城とは?
見どころ 大手櫓門と巽櫓の現存遺構
所在地 京都府南丹市園部町小桜町
園部城は京都府南丹市にあり、市役所に隣接した中心部にある平山城です。
南丹市とは聞きなれない地名ですが、2006年に船井郡園部町を中心に周辺5町が合併して出来た新しい市でした。
丹波の南部だから南丹なんでしょうが、では丹後の南部はどう呼べばいいのか…ここも課題の残るネーミングですね。

まず園部公園の駐車場へとクルマを入れます まだ朝の6:30ですが、ゲートは開いていました。 奥に立派な三重櫓が見えてますね

戦国末期には、この園部も波多野氏の勢力圏であり、家臣の荒木山城守氏綱の居城:園部城がありました。
天正6年4月の明智光秀の侵攻で園部城は落城しましたが、その後しばらくは記録が途絶えてしまっています。
その園部城をベースに近世城郭を造ったのは小出吉親であり、徳川政権も落ち着いた元和7年(1622)の事でした。




吉親は和泉岸和田5万石の小出吉政の二男であり、兄で嫡男の吉秀(出石藩主)が岸和田藩を継ぐと、兄の領地を受け継ぐ形で出石藩3万石の大名となっていました。
しかし大坂の陣が終わり、幕府の態勢も盤石になると、兄の吉秀は旧領の出石への転封を言い渡され、吉親は押し出される形で園部へと移封した次第です。
小出氏とはそもそもは藤原南家から出た二階堂氏の支族で、信濃伊奈郡小出郷を本貫地としてたそうですが、おそらくそれは創作だと思います。
吉親の祖父の秀政は豊臣秀吉の母:なか(大政所)の妹(栄松院)が妻であり、婚姻時期から考えてそんな名族では無かった事でしょう。
秀吉の驚異的な出世に伴って、その一門として遇された小出氏ですが、それでも三好一族の様な過度な厚遇ではなかった事で、豊臣家とは少し距離が出来、それが関ヶ原での一族両面作戦を可能にし、大坂の陣では徳川に与する事で生き残りへの道を開いたのです。
豊臣一門の中では、先が見えて冷静な判断ができた稀有な氏族と言えるでしょうね。

少し離れて遺構の全体をレンズに収めようとするのですが、建物や樹木の陰になって良いアングルが見つかりません

ここなら! と思うと、テニスコートのネット越しになってしまいます 学校も大事ですが城下町園部を象徴する場所ですから、も少し写真映えを意識した整備にして欲しいものです(^^;
小出吉親は園部に入ると宍人城を仮住まいし、園部城の跡地に新たに築城を始めます。
居館を水堀で囲み、周囲に家臣団屋敷を輪郭に配して、背後の小麦山は詰め城とする650m×450m規模の本格的な城郭でしたが、幕府からは“園部城”の名称は許されず、“園部陣屋”が名称として指示され、櫓の建築は許可されませんでした。
吉親の石高は3万石でしたから“城持ち大名”でも良いのですが、すぐ近くの出石に小出宗家の城(有子山城)が有る事も考慮した判断だったのでしょう。

本丸(高校の敷地)には入れないので、資料館周辺の公園エリアを散策して見ます

しかし残念ながら、城址保全を目的の公園ではない様で、遺構らしきものは見当たりません

堀跡っぽい場所に、廊下橋っぽい建物がありますが…

吉親の子孫はその後10代にわたり園部藩を維持し、一度も移封する事無く明治維新を迎えるのですが、“城持ち大名”への拘りは末代まで持ち続けていた様ですね。
最期の藩主の10代:英尚は、幕末期の動乱の中で禁門の変や池田屋事件で騒然とする京に乗り込み、“京都見回り役”の任を志願します。
その代償として、『万一の際の対処』をする為に、園部陣屋の城郭化改修を幕府に申請したものの、この時は認められませんでした。
しかし秀尚は諦めず、粘り強く交渉し続けた為、翌慶応3年の10月にはやっと老中の内諾を得るに至ります。
ところがその数日後、将軍:慶喜が大政奉還を決めた為、この話はご破算となってしまいます。
二条城大広間でこれを聞かされた秀尚の胸中は、さぞや無念で、大政奉還を一番悲しんだ大名だったかも知れませんね。

橋を渡ると詰め城だった小麦山への遊歩道になっています いきなり竪堀っぽい窪みが現れて期待値も上がりますが…

案内看板には城址の表記は最小限 遺構も無いんでしょうかね?

王政復古の名の元に明治新政府が樹立されると、諦めの悪い英尚は今度は“帝都守衛のため”と称して、新政府に園部城築城を願い出ます。
ところがこの申し出はアッサリと認可され、250年間にわたる小出家の宿願は実現の運びとなりました。
新政府、主に薩長の思惑として、幕府勢との決戦(鳥羽伏見の戦い)は避けられないものであり、もしこれに敗れる様な事が有れば、明治天皇を擁して長州まで一旦退く事が決められていました。
その想定退避ルートにある園部藩が要害構築を申し出るという事は、退避を容易にする、“渡りに舟”だった訳です。



築城工事は翌慶応4年(明治元年)の正月から始まり、その年の内にはほぼ竣工しています。
新たな防備としては二重櫓が4棟、櫓門3棟が建てられ、 総構えの堀は総延長2kmに及んだそうです。
小麦山の山頂には天守に相当する三重櫓が建てられ、名実ともに“城持ち大名”となった英尚や小出家家中の喜びは如何ばかりかと思いますが、その喜びは1年半の限定のものとなります。
明治2年7月発令の版籍奉還~廃藩置県によって園部藩が廃されると、園部城も廃城とされて、まだ木の香漂う櫓や城門の多くは民間に払い下げられて移築されて行きました。
ただ、本丸正面の巽二重櫓と大手櫓門は残され、本丸跡地に立つ園部高校の施設として活用されています。