初日の最期は京都の奥座敷(と言うかどうか…)、亀岡市にある丹波亀山城です。
この城址、明智光秀が築城して明治維新まで残った城ですが、現在に遺る本丸周辺の遺構の全域は“大本教”の本山として宗教法人が所有しています。
 
 
丹波の城  丹波亀山城  京都府 登城日:2019.6.12
 
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 別名      亀宝城、亀岡城
 城郭構造   平山
 天守構造   複合式層塔型55階(現存せず)
 築城主    明智光
 築城年    1578
 主改修者  岡部長盛
 主城主    明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部、出口氏、など
 廃年     1877
 遺構       石垣、堀
 指定文化財  なし
 城の観点    明智光秀の城の面影
 見どころ     残念ながら特になし
 所在地      京都府亀岡市荒塚町
 
 
 朝の新名神の渋滞ロスは吸収できず、亀岡に着いたのは4:30を廻っていました。
この宗教法人は、城マニアには門戸を開放してくれていて、参拝者用の駐車場を無料で使えて、受付にひと声掛けると快く城址遺構を見学させてくれるそうです。
 
 しかし結論から言いますと、閉門時間が迫るタイミングでの入場はさすがに厚かまし過ぎると思い、内部の見学は意外にアッサリと断念する事にしました。
 …と言うのも、追々書きますが現在の遺構は光秀の城とは似ても似つかないものになっている可能性が高いのです。
城ある記的には“時間があれば見ておいても”な遺構だとしておきます。
 
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せめて全容を俯瞰出来ないかと、イオンの立駐屋上に登りますが、木立が繁って何も見えません
 
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正保絵図 保津川を背にした南に厚い縄張りです 石垣や水堀も限定的な様ですね
 
 
 僅かながら北側の内堀は当時の雰囲気が良く残り、対岸の堀端は遊歩道が整備された“南郷公園”となっていますので、限られた条件下ですが此処から在りし日の丹波亀山城を偲んでみます。
 
 亀岡は京都の嵐山から桂川に沿って10kmほど遡った、丹波に入って最初にある町です。
盆地が広がる穀倉地帯のゆったりとした地域で、昔は国府や国分寺が置かれた場所でもありました。
 
 戦国末期に、織田家の武将:明智光秀が豪族居館のあった丘陵の“荒塚山”に城を築き、亀山城と名付けた事から、亀山と呼ばれる地名になりましたが、伊勢亀山と混同される事が多かったため、明治になってすぐに“亀岡”と改名されたそうです。
ですから、城が現役の頃は常に亀山だったので、ここでは“亀山”で通します。
 
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北側の主要な虎口だった保津門跡
 
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絵図を見る限り、此処からの景色は当時のままの気がします 内堀ですが、石垣が破却された痕ではなく、最後まで土塁だった様ですね
 
 
 亀山城が築かれる前の荒塚山には、近藤内蔵丞秀政という土地の豪族が居館を構えていたそうです。
 天正6年(1578)、信長から丹波攻略を命じられた光秀は、丹波口の要地にある亀山に眼を付け、秀政に城地の譲渡を求めました。
 
 これに対し秀政は、我が館地をお使い頂くのは無上の誉れ…』とばかりに、すぐさま山上の拡大普請に取り掛かり、作事は近郷の寺社を取り壊して移し、瞬く間に亀山城は出来上がったそうです。
 ですから、最初の亀山城は空堀に土塁と切岸の、戦時に特化した“大掛かりな砦”といった体だったのではないでしょうか。
 
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堀の外側には木桟道の散歩道が造られていて、城址を感じながら散策できます
 
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しかし対岸の主郭の様子は樹木に覆われて、窺い知る事はできません
 
 
 当時の丹波には波多野氏と赤井氏が戦国大名として君臨しており、三好与党でしたが、信長上洛の折に一度は将軍:義昭に馳走する形で織田傘下に入るものの、義昭が信長と敵対し出すと反織田の意思を鮮明にしていました。
 
 近藤秀政も波多野氏の一部将であったのでしょうが、京に至近の亀山に居て、織田軍の動向を耳目にしやすい環境の中では、織田への臣従こそ生き残る術と意識していたのでしょうね。
 
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参道の中間あたりにある南郷公園
 
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その片隅にひっそり佇む光秀築城の碑 光秀は今まで概してこうゆう扱いなんですが…
 
 
 光秀はこの亀山城を拠点にして、一年余りを掛けて波多野氏、赤井氏を討滅し、丹波平定に成功するのですが、すぐさまの丹後平定戦に向けては福知山に移動して城を本格整備し、拠点機能を移しています。
 
 また光秀にはこれと並行して中国の秀吉への後詰めや摂津有岡城攻めが命ぜられ、文字通り東奔西走しています。
こうした条件下で、光秀に亀山城を坂本城に代わる居城として整備・拡充する意義や余力がどれほど有ったかは、甚だ疑問です。
 
 ともあれ、本能寺へはこの亀山城に兵馬を集め、出陣しています。 後世にその事が城の価値を実体以上に高めているのは間違いありませんね。
 
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今年になって、新しい銅像が建てられた様です
 
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大河ドラマを機に、明智光秀の復権なるか!?
 
 
 天正10年(1582)、山崎の戦で光秀が滅びると、清須会議において秀吉は光秀の旧領の丹波を所望して認められます。
 秀吉は亀山城に養嗣子の秀勝(信長の四男)を入れています。 暗に、主仇の明智を滅ぼしたのは誰か?織田の跡を継ぐのは誰か?を世間に問うていますね。
 
 この時、亀山城は“光秀のお下がり”ではない、総構えを含めた相当に大掛かりな改修を受けていると思います。
その証拠に、秀勝が病死した後もこの城を重視して、秀勝(秀次の弟)、秀秋(小早川)の後継者候補を入れています。
京に至近の地勢的な面でも重要な城だった訳ですね。
 
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案内看板の縄張り図 京から山陰への入り口の亀山は水運で賑わった様です
 
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『時は今 雨が下知る…』愛宕山もすぐ近くに臨めます
 
 
 次に亀山城が大幅な改修を受けるのは、徳川家康の治世になった慶長14年(1609の事で、大坂城包囲網のひとつとして亀山城には天下普請の大改修が加えられ、普請奉行には藤堂高虎が当たりました。
 
 高虎の改修ですからおそらくは、主郭を高石垣にし、城門の強化が主だったと思われますが、明治まで残った五重の層塔型天守もこの時の建造の様です。
 
 江戸期を通じて亀山城主は、3~5万石の譜代大名8家が歴任し、藩主は同時に京都所司代や大阪城代を勤めるのが通例だった様です。
 言わば幕閣の登竜門ですが、頻繁な移封は領地の分散に繋がる上、立派な城は補修も大変です。 そして出世するには何かと物要りな時勢で、どこも藩財政は苦しかった様ですね。
 
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蔵書より 亀山城古写真 
本丸高石垣は高虎作で間違いないでしょう(秀吉時代以前には技術的に無理と思われる)
 
 
 明治になり、亀山城も廃城令で明治10年に破却されて、土地・建物は競売に付されます。
しかし、城地には買い手が付かず荒れ放題になっていたところ、大正8年になって新興宗教の大本教が買い取り、城址に施設を建てて“聖地”として整備しました。
 
 この大本教は民主主義、特に貧困者の救済を教義としていたので、民衆に限らず政財界や軍人にまで信徒が急速に広がり、是に危機感を持った政府により徹底的に弾圧されてしまいます。
*詳細は大本事件で参照ください。
 
 教団からは逮捕者が数千名に及び、拷問死者も出る始末で、教祖には一審の裁判で終身刑が言い渡されました。
 同時に亀山城の教団施設は政府の手で1500発ものダイナマイトで破壊され、建物だけでなく城址の石垣までがすべて運び出されて日本海に投棄されたと言います。
その作業には1万人が動員され、費用はすべて教団から徴収されました。
 
 しかし、国のあまりに強引な手法に疑問を持つ声も徐々に高まり、昭和17年の世相にも拘わらず、法曹界は最終判決で無罪を言い渡します。
 
 戦後に晴れて自由の身になった教祖さんは、周囲の“国に賠償請求しよう”という声にも拘わらず、賠償を貰っても結局それは国民の血税だと、請求を拒んだと言います。
 それだけでなく、返還を受けた“更地になった城地”に元に近い形で新たに石垣を積み直し、教団施設を再建して現在に至っています。
 
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現状の天守台石垣(wikiより借用)
それらしく再現されていますが、石はすべて昭和の石材で、当時のものではありません
 
 
 以上の様に、明智光秀を語るのに、現在の亀山城址はあまり意味を為さないという思いですが、それとは別に、明治維新以降のこの国と国民が人として成熟する過程で、大きな契機を与えてくれた丹波亀山城です。
 
 こうした産みの苦しみを経ずに、自己の欲得だけを考え、権力者に迎合して暮らしていたなら、今頃は意見が対立する国の製品の不買運動にせっせと勤しむ様な愚かな国民になっていたのでしょうね(^^;
先人の労に感謝すると共に、次代に受け継ぐ大きな教訓としなければ。
 
 
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この日の宿泊は道の駅:スプリングスひよしでの車中泊 温泉付きですよ
 
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お仲間は5台 静かな環境で、熟睡できました
 
 
今年の梅雨は長引きますね~。
日照不足で畑の野菜の生育が芳しくありません。 暑くなってもいいから、早く開けて欲しいものです。
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春にグリーンカーテン用に植えた“スズメウリ”に可愛い実が付き出しました(^^♪
赤くなるのが楽しみです