次は大坂方面に2kmばかり下って山崎城を訪ねます。
山崎城とは、山城と摂津の国境で、淀川が山に挟まれた地峡を通る狭隘な場所に築かれた山城で、西国街道を見下ろす天王山頂にあって、戦術上極めて有効な城塞として、古来から重視されて来ました。
山城の城 山崎城 京都府 登城日:2019.6.12

別名 鳥取尾山城、天王山城、宝寺城
城郭構造 山城
天守構造 不明(天守があったらしい)
築城主 林直弘
築城年 延元3年(1338)以前
主な改修者 細川晴元、豊臣秀吉
主な城主 林直弘、薬師寺国長、細川晴元、豊臣秀吉
廃城年 天正12年(1584年)
遺構 土塁、櫓台、天守台、空堀、井戸、竪掘
指定文化財 なし
再建造物 なし
訪城の観点 秀吉の拠点としての城の姿
見どころ 山上に遺る土塁遺構
所在地 京都府乙訓郡大山崎町字大山崎
山崎城の始まりは南北朝期初期で、北朝方の赤松則祐が男山に籠る南朝勢を牽制する為に、家臣の林直弘に命じて築かせました。
以後は京に入る西国街道を扼する要衝の要害という事で、応仁の乱をはじめ大きな戦乱が起こる度に重要拠点として争奪戦が繰り返されました。
しかし何と言っても山崎城を有名にしたのは、織田信長を殺いた明智光秀と羽柴秀吉が戦った『山崎の戦い』です。


大山崎町歴史博物館 先輩ブロガーの情報通り、隣の駐車場に入れますが…
勝竜寺城から山崎城へ向かうは、まずR171へ出て、まっすぐ南下するのが定石です。
途中の大山崎交差点を右折して一本西の旧西国街道(府道67)へ入り、沿道の“歴史資料館”を目指すのですが、大山崎の交差点は交通量が多いにも関わらず右折レーンが無く、→信号も無いので、交通の妨げにならずに右折するのは事実上不可能です。
仕方なく次の山崎町交差点まで行って旧道に入り、北上するルートを採りました。
なぜ歴史資料館に拘るかと言えば、事前の情報収集が主目的ではありますが、資料館隣りのパーキングに入れて入館すると、駐車料金1時間分は補助されるという情報を持っていたからです。
しかし結論から言えばこの情報は古新聞で、もうその制度は廃止されたそうです(*_*;
それはさておき、この資料館、展示物は期待した程の物も無く、無料配布の補助資料の様な物も殆どありません。
最後の手段の“聴き取り”を試みても、知識が無いのか、人付き合いが苦手なのか終始面倒臭そうな対応なので、行ってみる価値の高い資料館ではありませんでした。

荏胡麻油の産地として古くから栄えた山崎には路傍のそこかしこに野仏があります

宝積寺参道を兼ねた登山道はよく整備されていますが、最初から急坂です

10分ほどで宝積寺に着きます
早々に資料館を出て、宝積寺を経由して山崎城址の天王山へと登攀を始めます。
比高250mのこの天王山には登山道が整備されていて、手軽なハイキングコースとして京阪の人達に親しまれている様で、リュックを背負ったハイカーがチラホラ居ます。

本堂の右手を奥に進むと…

整備された登山道に入って行きます

登り口にある看板
天正10年6月12日、光秀と秀吉の軍勢は山崎北方の小泉川を挟んで布陣します。
光秀は当初、一番狭隘となる天王山と淀川対岸の男山(石清水八幡宮)に兵を入れ、このラインで秀吉軍4万を分散させて有利に決戦する構えでしたが、自軍の兵力が1万5千しか集まらない中では主力が薄くなる為、高地の要害を棄てて地峡の出口を塞ぐ形で布陣する(正面対決のみ)という苦肉の策を採らざるを得ませんでした。
一方の秀吉軍は難なく山崎城を押さえ(布陣したのは黒田孝高勢と言われる)、戦況の情報網を構築した上で自身は宝積寺に本陣を構えて、麓の狭い平地には配下の諸将を幾重にも配置して、分厚い攻撃陣形を敷いていました。

雨で崩れたガレ場も有りますが…

殆どはこんな階段道 でもこの種の階段は蹴上が高くて意外に疲れます(^^;

また10分ほど頑張って登ると、休憩できる広場に着きました

此処は秀吉が立てたという旗立松の広場で、麓の眺望が効くところです 南側の風景ですね

松の木は代替わりしてました
戦闘が始まったのは翌13日も夕刻の事で、日没までの2時間の戦闘で明智軍はほぼ壊滅し、夜陰に紛れて丹波や近江へと落ち延びて行くのがやっとでした。
後世にはこの戦いを引き合いにして、均衡する勢力が雌雄を決する帰趨の知れない戦いを『天王山』などと言う訳ですが、実際の天王山(山崎)の戦いは、勝敗の結果は知れていた、一方的な戦いだった様ですね。
この辺りが明智光秀ほどの者が後々の十分な手筈も無く本能寺を攻めたのは“感情的・偶発的な事件”とする根拠なのでしょうね。

北側の景色 高速道路の辺りが主戦場でした

広場にある合戦図屏風の壁画 左上に淀古城、その下は勝竜寺城、右奥には石清水八幡宮があって、両軍の布陣が判ります

こちらは戦いの様子を描いています

広場の上が少し平地になり、木の伐採がされて拓けています

これは十七烈士の墓と言い、幕末の蛤御門の変で敗れた長州藩の家老:真木和泉らが自害した場所だそうです
戦後、秀吉は京に入って明智残党の討滅を指揮した後、6月27日の清須会議に臨みます。
会議の遺領配分で山城と丹波を得たものの、近江長浜を失った秀吉は、京に近い地での新たな拠点探しを始め、最終的に山崎城を拠点に定めます。
天王山山頂の古城を大々的に改修し、天守まで建てたと言いますが、さすがに比高250mの山城に住む訳には行かず、これは詰め城として、麓の宝積寺周辺に根小屋となる館と家臣団の城下を形成しました。
山崎城の別名が宝寺城と言うのは、城郭の主体が麓に整備されたから故なのでしょうね。

また10分ほど登ると酒解(さかとけ)神社に着きます 養老年間創建の古い神社で、素戔嗚尊を祀ります


現地看板より 神社を過ぎるといよいよ山崎城(詰め城)の城域です

どうも城域全体が私有地らしく、地主さんにとっては史跡買い上げもされず、開発もできず、頭の痛い所ですね(^^; せっかくの檜も伐り方が金にならない玉切りです

でも切り株は連郭式の縄張りに… 遊び心がありますね(^^;

ここは主郭の虎口ですが、もう少し整理しないと判りにくいですね

入り口は入り口石段の跡も確認できますが、だいぶ荒れています
ではなぜ山城なのかという疑問ですが、当時の秀吉の基盤がまだ万全ではなく、最悪の場合籠城する事態も考えての事なのでしょう。
次に、山城なら近くに規模も大きい芥川山城や飯盛山城といった堅固な城があるのですが、それを活用しなかったのはまだ自領ではない事に加え、山上の平坦な地形があると思います。
数万の兵で籠る事ができる発展性と、攻め下りるルートの多様さが決め手だったのではないでしょうか。

門の礎石らしき石もあります

主郭はこういう山城の本丸では広い部類で、奥の高みが天守台かな?

眼下の様子も、直下は樹木に遮られて見えません この高さだと戦況が見えても指示を伝えるタイムラグで指揮所としては役に立ちませんね

天守台の礎石痕 何らかの建物が有った証拠

石垣の積み石か? 集積されていました

主郭の南の郭 兵力を集められるまとまった広さがあります
ともかく、翌天正11年春の伊勢、美濃進攻と賤ケ岳への出陣は、この山崎城から行なわれました。
賤ケ岳に柴田勝家を破った秀吉は、すぐに論功行賞と大名の再配置を行ない、摂津大坂を領していた池田恒興を美濃大垣に移し、大坂石山本願寺跡地に新城:大坂城の築城を始めます。
そしてその年の暮れには山崎から大坂に本拠を移し、天下取りの仕上げへと邁進して行くのです。
山崎城は廃城となって翌天正12年3月までには跡形も無く廃棄されました。

山上にあった野仏群 最近まで供養されていた様なんですが…

麓に戻って宝積寺。秀吉の居館があった根小屋の地域です

立体地図で見ると、居館を中心に郭塁が積み重なっていた様子が手に取る様に判ります