淀古城から北西に2km、桂川と支流の小畑川を渡った目と鼻の先にあるのが勝竜寺城址です。
戦国中期の京をめぐる争いの中で、その入り口にあるこの城は、京を護る、または京を窺う上での重要な拠点として歴史の舞台に登場します。
 
 
山城の城  勝竜寺城  京都府 登城日:2019.6.12
 
イメージ 1
 
 別名        小竜寺
 城郭構造     梯郭式平城
 天守構造      あり(詳細不明)
 築城主       細川頼春
 築城年       延元4年(1339
 主改修者    細川孝、明智光秀
 主城        細川氏、永井氏他
 廃年       慶安2年(1649
 残存遺構      土塁、空堀、石垣、土橋
 指定文化財    なし
 再建造物      模擬石垣・櫓
 訪城の観点    細川藤孝の城づくり
 見どころ       広範な残存土塁遺構
 所在地        京都府長岡京市東神足2丁目
 
 
 現在の勝竜寺城址は本丸周辺が城址公園として整備され、模擬の櫓や門、土塀が復元されていて、中世の平城らしい雰囲気が再現されています。
 公園には珍しく無料の駐車場もあり、この地域の城址としてはとても質の高い整備が為された城址ではないかと思います。
 
 しかし、本丸だけとはいえ城域はわずか100m四方ほどのエリアに留まり、知名度の割には小ぶりな、城と言うよりは中世の大名居館の体なのはちょっと意外な感じがします。
 
イメージ 2
 
イメージ 3
案内看板より 城縄張り  公園整備は本丸と沼田丸で、他は完全に市街化されています
*下が北になっています
 
イメージ 4
公園には無料のパーキングがありました。 京阪神では珍しい事です(^^;  手前の井戸は城遺構を復活させたもので、『ガラシャおもかげ水』と命名されています。 飲めるみたいですよ
 
 
 勝竜寺城は南北朝騒乱の時に、南朝方の京都奪還を警戒した北朝方の細川頼春が築造したのが始まりと言われています。
 頼春はこの地に大城郭を築き、万余の大軍を常駐させて攻城戦に備えたのかと言うとそうではなく、あくまでも古式の作法に則って、互いに平地に陣を張って対峙し、日和と刻限を選んで一斉に合戦に及ぶという戦い方を前提とした“戦闘指揮所”の様な城を意識しての築城だったんではないかと思います。
 
イメージ 5
本丸には模擬ですが、復元建物がたくさん建っており、素人目にも当時の雰囲気を味わえます この建物は公園管理棟。
 
イメージ 6
大手口 石垣で枡形を造り、左折れで四脚門があります 実際こうだったみたいですね。
細川の城ですが、幟は光秀・ガラシャ父娘のが…
 
イメージ 7
大手門前の堀は約3mと狭く、走り幅跳びで余裕で跳べます(^^;  道路を造るのに削られたのでしょうね
 
 
 永禄11年(1568、将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、5万の大軍をもって洛南から摂津の三好三人衆の城塞群を攻めます。
勝竜寺城には三好家きっての勇将:岩成友通が居て、果敢に戦いますが、防戦2日目には堪らず城を棄てて逃走しました。
 
 他の諸城はというと、すでに近江において昨日までの強敵だった六角氏のあっけない敗退が伝わっており、大した防戦もないまま城を退去して信長軍に明け渡したそうです。
 
イメージ 8
東側の堀は10mはありそうで、これが正規の幅なんでしょうね いかにも在りそうな隅櫓が良い雰囲気をだしています。
 
イメージ 9
土塁に鉢巻き腰巻き石垣の構造 腰巻きは土留めに有り得ますが、鉢巻きは多聞を建てる為の少し後の技術ですから、土塀じゃ意味ないですね
 
イメージ 10

案内看板より 本丸復元と総構え全容  え? 細川の城でしょ? と思うかも知れませんが、当時は1万石有ったかどうかの身代ですから、こんなもんかも。 居住屋敷(御殿)は洩れていますね
 
 
 織田方の城となった勝竜寺城には、幕臣で義昭の側近の細川藤孝が入り居城としました。
藤孝は信長の許可を得て、ほぼ単郭の居館然としていた城の大々的な改修をします。
 
 まず城の周囲を二重の堀で囲み、多くの兵が籠城できる“戦える城”へと変貌させました。
本丸周辺も強化が図られ、大手、搦手門は石垣を多用した枡形門とし、南西隅の物見台には天守が建ったといいますが、詳細は判っていません。
 
イメージ 11
内部に入りました 庭園の復元は中途半端ですが、細川の城らしく、防備よりも力を入れてたかも…
 
イメージ 12
土塁上には全面に土塀が設えてあり、水色桔梗がなびいています。 この“麒麟がくる旗”、このあと丹波、丹後でも嫌というほど見る事になります。『是非も無し…』(^^;
 
イメージ 13
土塀の外側は下見板張りで、念の入った仕様です
 
 
 藤孝の意志として、信長に掃討して追い払ってもらった三好勢を、今後は自らが勝竜寺に陣取って室町幕府を守り抜く決意を示した…と思いたいのですが、義昭と信長の仲が上手く行かなくなった折に、 義昭の不穏な行動を逐一信長に報告していたのは藤孝だったと言いますから、なかなかの食わせ者です(^^;
 
 幕臣として義昭を擁立して行動を共にする中で、義昭と信長の歴然とした差を見るにつけ、室町幕府体制の無理を見極めていたのではないでしょうか?
 
 以後、藤孝は信長の一部将として畿内各地を転戦し、次いでは明智光秀の与力として丹波攻略に参戦して行きます。
 
その頃に、信長に薦められて嫡男:忠興に光秀の三女:玉子娶りました。天正6年(1578)の事です。
 
祝言もこの勝竜寺城で行なわれ、同時に新居となった訳ですが、2年間ほど此処で暮らした事になりますね。
 
イメージ 14
城内にある細川忠興・ガラシャ像 15歳で嫁ぎ3男2女を設けたそうですから、夫婦仲は良かった様ですね
 
イメージ 16
百合を持つガラシャ像は良く見る画像がモチーフでしょうが、この城の時代を反映して十字架が省かれています
 
イメージ 15
天守があったという櫓台から見る大手前の通り 『ガラシャ通り』だそうで、毎年行列イベントがあります
 
 
 天正81580)、光秀と藤孝は丹後の攻略に成功し、細川家は恩賞として宮津の城と丹後半国(6万石程度)を与えられて移ります。
 
 代わって勝竜寺城を支配したのは京都所司代だった村井貞勝で、家臣を城代に置いていましたが、101582)、本能寺の変が起こると貞勝も二条館で信忠と共に非業の最期を遂げてしまいます。
 
 
 変の直後は朝廷工作と近江平定の傍ら味方勧誘に多忙な光秀でしたが、中国筋から羽柴秀吉の軍が猛烈な勢いで東上しているのを知ると、京に戻って迎撃態勢を整えます。
 
 地形が狭隘な山崎を決戦の地と踏んだ光秀は、勝竜寺城に入って此処を本陣にしました。 遂に麒麟がやって来ましたね(^^)
 
イメージ 17
城内北端の郭:神足屋敷跡に土塁が遺っているそうなので行って見ます。 道路が削り取った断面がタイルで再現されていますが、何層にも積み重なっていますね
 
イメージ 18
肝心の土塁はと言うと、歩道を造って見学しやすくなっていますが、年に三回は草刈りしないと、こうなってしまいます(*_*;
 
イメージ 19
城外である左側が高いので、土を掻きあげて高さを稼いでいますね  左手奥には神足神社があって、その名前からスポーツ選手の参拝も多いそうです
 
 
 此処で光秀は与力の筒井順慶の兵6千の来援を待ちますが、一向に来る気配がありません。 細川藤の兵力は千2百程度なので、残念さほどに影響は大きくありませんが、筒井が来ないのは困ります。
 
 やむなく単独での決戦を決めた光秀は、1km南の小泉川河畔まで出て布陣し、自身はその後方の恵解山古墳の高台で指揮を執りました。
 
 光秀軍1万6千と秀吉軍4万は2日間の睨み合いの後に開戦しますが、2時間ほどで主力の斎藤利三隊が崩れると総崩れとなり、敗走を始めます。
 
 一旦勝竜寺城に退いた光秀も、一息つく間もなく近江坂本での再起を期して勝竜寺城を後にしますが、その夜半に伏見の小栗栖で土民の襲撃に遭い、敢無い最期を遂げました。
 
イメージ 20
城内搦手門脇には墓石が集められていました。 山崎の戦の戦没者の物でしょうか?
 
イメージ 21
これは 我が家の庭に咲く桔梗です(^^)
 
 
 その後の勝竜寺城に主は居なく、秀吉による淀古城修復に資材が大量に持ち去られるなど、荒れるに任せていましたが、江戸初期の寛永10年(1633)から10年余り、永井直清が2万石で長岡藩主となり、勝竜寺城に居住します。
 
 しかし、城の修築は許されず、城内北側の一郭に陣屋を建てての陣屋大名という条件付きでした。 その直清も高槻に転封になって去ると、勝竜寺城は正式に廃城となります。
 
ですから、最後の城主は明智光秀だったという解釈はアリかも知れません。
 
 
 麒麟が去った勝竜寺(長岡京市)と隣の山崎は、今ではサントリーの工場が建ち並ぶ一大拠点となっていますがそれは関係ないか(^^;