続いては伏見城の残材で建てられたという淀城を訪ねます。
築城した元和9年(1623年)8月、淀城に入ったのは松平定綱(久松家)で、遠江掛川から3万5千石での移封でした。
そう書くと、淀城自体が小規模で大した城ではない感じに聞こえてしまうかも知れませんが、 思ったより随分と大規模で豪華な城だった様です。
山城の城 淀城 京都府 登城日:2019.6.12

別名 てん城、新淀城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 連立式望楼型5重5階地下1階(二条城からの移築:非現存)
築城主 松平定綱
築城年 元和9年(1623年)
主な改修者 永井尚政
主な城主 久松松平氏、石川氏、稲葉氏他
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、堀、天守台、本丸跡、二の丸跡等
指定文化財 なし
訪城の観点 規模感と果たした機能
見どころ そのまま遺る大きな天守台
所在地 京都市伏見区淀本町167
二代将軍:徳川秀忠は伏見城を廃城するにあたり、“淀の津”に新城を築城し、“淀藩”を設立して譜代大名を置き、この地を治めさせました。
淀の津は淀川が木津川、桂川、そして宇治川と枝分かれする分岐点にある湊町でした。

市街化に埋もれた淀城に行く目印は京都競馬場。 京阪淀駅前にあります。

淀城址に登城者用の駐車場はなく、神社脇のコインパーキングに停めるしかありません。 かないまへんなぁ(*_*;

残存遺構は本丸と内堀が城址公園になり、二ノ丸には神社が建っています。
上流に琵琶湖という巨大なダム湖を持つ淀川は水量が安定しています。
ここまで舟で遡上して来た人や物資は、淀の津で陸に上がり、この先は陸路で京・丹波、近江、大和・伊賀へと向かって行った訳ですね。
つまり、京都守護の重要な戦略拠点であり、物流の国内最大級のHUB拠点だったのが当時の淀の津だったのです。
淀城を整備した松平定綱は10年の在城の後、美濃大垣6万石に加増転封になり、代わって下総古河藩8万9千石から永井尚政が10万石で入ります。
淀城の外郭の武家屋敷や町人町、堤防、湊などが整備されたのは主にこの尚政の35年間の治世によるもので、地元にとっては最大の功労者かも知れません。

ガラス越しで見にくいですが、江戸時代の縄張り図 淀川の分岐点を抑える水城で、堀が多用されています。 内堀、中堀は淀川の水位より高かったので、大きな水車を設置して水を汲み上げて注入してたそうです。
城内には大天守の他38基の櫓と21棟の門がありましたから、ほぼ豊前小倉城に匹敵する規模(*_*;

城址内でよく整備されているのは與杼(よど)神社で、二ノ丸跡の大部分を占めています。 これは奈良時代から有った淀大明神を永井尚政が城内に祀ったもので、この拝殿は1649年製の重文です

本丸には稲葉氏を祀った稲葉神社もありますが、こちらは荒れています

本丸は天守台と周囲の石塁がほぼ完全に残っていますが、天守台の大きさが目立ちます

まず天守台に登ろうとしますが、付け櫓の石段は閉鎖されています。 近付くと巣があるのか頭上でカラスが大騒ぎしています(^^; あまり訪れる人が居ないんでしょうね

南側の雁木から多聞跡に登って近付きます 天守台のデカさが判りますね
伏見城天守を移築する為に積んだ天守台は二条城天守に変更されたのでデカ過ぎ、余白となった四隅に変形二重櫓を付けた異形の天守でした
永井家は尚政の子の尚征の時に丹後宮津藩7万3千石に移封になり、以後は石川家3代、戸田松平家2代、大給松平家1代と替わって行きますが、いずれも6万石での在任でした。
享保年(1723)、下総佐倉藩から稲葉政知が10万2千石で入ると、以後は稲葉家が12代続いて明治維新を迎えます。
山城国唯一の大名で、10万石超の大藩の稲葉家で、京の表玄関の守護は万全に見えましたが、それまでに処世術で戦国の世を生き抜き、転々とした稲葉家の領地は全国に細かく分散していて、財政は火の車でした。
その上譜代大名としての幕閣の務めも有って藩主は江戸詰めが多く、おのずと藩政は有能な家老に任せる事態が慣習として代々続き、それが幕末の悲劇を生んでしまいます。

天守台内部も施錠されて入れませんが、半地下構造になっています

水堀は天守台を囲む様にL字型に残っています。

そのすぐ脇を京阪電車が走っていて、淀駅があるので開発は急ピッチで進みました。 もう少し離す事は出来なかったものか…。

本丸南西隅の櫓台 三ノ丸へ出る搦手口です

そこ(土橋)から見る堀と石垣の様子が一番古城らしさを醸しています。

積み石が置かれて看板が立っていますが、石の説明文ではない様ですね
通り掛りの老人と話したら『昔はきれいな蓮と菖蒲の池だったのに、外来の魚と亀に荒らされてこのザマだ…』と嘆いていました。
最期の藩主:稲葉正邦は陸奥二本松藩丹羽家からの養子で、その聡明さゆえに稲葉家初の老中にまで昇進しますが、藩政の実権を握る筆頭家老の田辺権大夫とは確執を深めてしまいます。
そして迎えた鳥羽伏見の戦い。
伏見で敗れた幕府軍は一旦淀城に入っての態勢の立て直しを図りますが、城を預かる田辺権大夫は門を固く閉じ、威嚇射撃をして入城を拒否しました。
幕府軍の首脳の(留守城の)裏切りは消極参戦の諸藩の寝返りも呼び、混乱の極に達した幕府軍は、雪崩を打って大坂城へと敗走し、これで幕府の瓦解は決定的となってしまいました。
普通の外様藩なら結果的に惨劇を避けた賢明な措置…という見方もできますが、藩主の立場を勘案すれば、武士の本分を棄てた後味の悪い終わり方ですね。

本丸には付近の開発で撤去された石碑が集まっています
【忘れられた淀古城】
淀城といえば、『秀吉の側室の茶々が長男の鶴松を産む際に産所として建てられた城ではないのか?』…という声がありそうですね。
その淀城は別物で現在は“淀古城”という名を与えられており、淀城の北の外れに僅かながらその痕跡が遺っているそうなので、訪れてみます。

旧京阪国道を北上した妙教寺の辺りが城址という事前情報で近くまで行きますが、甍は見えるものの行き止まりです(*_*;

仕方なく半分戻って、路地に入り西側からアプローチします
淀城址にもあった唐人雁木跡の碑 唐人とは朝鮮使節の事で、淀に上陸してから陸路江戸に向かった様です
そもそも淀の地に城が置かれたのは室町中期の事で、管領:細川正元の勢力下に築かれたのが始まりだそうです。
その後は細川→三好→松永→三好と勢力図の変化に応じて城主が代わりますが、その都度激しい争奪が繰り広げられた城でした。
永禄11年(1568)に織田信長が上洛すると淀古城も攻め落とされ、その後は近隣の勝竜寺城を拠点とした細川藤孝の管理下に置かれた様ですね。
本能寺の変の後、明智光秀は東上して来る羽柴秀吉を迎え撃つべく、淀古城と勝竜寺城を改修して備えたと言われます。
しかし、実戦(山崎の戦い)は桂川西岸の一帯で行なわれた為、淀古城での大きな攻防はありませんでした。

路地を小さな川が横切っています その護岸の造り方から見て、これは淀古城の堀跡ではないでしょうか?

桂川に合流する方面 こりゃ絶対堀跡だ

桂川の堤防からは山崎方面の天王山が間近に迫ります
秀吉の天下になると、秀吉は弟:秀長に命じて淀古城を大々的に改修させました。
これは側室:茶々の懐妊~出産に合わせての改修であり、大坂城と京(聚楽第)を行き来する秀吉の行動範囲に母子を置きたいとの思いからだと思いますが、鶴松を産んだ茶々は以後は“淀の方”と呼ばれ、鶴松が3歳で病死するまで淀古城に居住していました。
淀の方が淀古城を去ると、城は豊臣秀次の管理下に置かれ、家老の木村重茲が城主になっていましたが、秀次事件に連座して自害すると廃城になり、資材は悉く運び出されて伏見城(指月城)築城に使われたと言います。

さらに進むと妙教寺の入り口がありました

妙教寺は法華宗の寺院で、1626年に淀古城跡地に建立されました

その庭にある“淀古城址”の石碑のみが城の存在を証明しています

併記してある“戊辰役砲弾貫通跡”とは、鳥羽伏見の戦いで戦場となった折り、新政府軍の砲弾が本堂の壁を貫通したもので、その孔は修復せずに、カバーを掛けて保存されています
淀古城がどんな縄張りで、どんな建物があったか、資料が無くてまったく不明な訳ですが、秀吉が愛妾と唯一の嫡子を住まわせ、頻繁に通った城ですから、相応の防備を備え警備兵も沢山常駐できる城であり、尚且つ御殿機能が充実した城であった事は疑いありませんね。
ひとつの手掛かりとして、木村重茲は維持管理費を含め18万石で遇されていたと言いますから、それに相応しい威容を誇ったのでしょう。