春の農繁期が落ち着いて、梅雨が来るまでの晴れ間を狙って、これまで城歩きではまだ未踏だった山城、丹波、丹後、若狭を巡って来ました。
山深い内陸の丹波、丹後は特に、名高い城といえば険しい山城に名城が多いのですが、この時季の山城は遺構の視認が容易ではないので、麓の平城を主体の紀行になりました。

まずは山城地域から順次UPして行きますが、久々の城歩きツアーです。
自宅を早朝に出て、最初の訪問地の伏見城址へと向かいます。
新名神から名神に合流し、すぐに京滋バイパスに分かれて宇治から伏見へと走りますが、名神高速道路が現在リフレッシュ中で、渋滞が新名神にまで及んでいて、1時間もロスしてしまいました(*_*;
山城の城 伏見城 京都府 登城日:2019.6.12

別名 桃山城、指月城、木幡山城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明(指月山・1592年築)
(木幡山・1596年築/1601年再)
築城主 豊臣秀吉
築城年 1592年(文禄元年)
主な改修者 徳川家康
主な城主 豊臣氏、徳川氏
廃城年 1623年(元和9年)
訪城の観点 歴史に名高い伏見城とはどんな城だったのか?
見どころ 現地と移築遺構から垣間見える城の姿
所在地 京都市伏見区桃山町古城山
駐車場 伏見桃山城運動公園駐車場(有料)
豊臣秀吉の晩年期から徳川家康が天下を簒奪し軌道に乗せるまでの一時期間、日本の政治の中枢機能は伏見にありました。
徳川幕府が開幕し、拠点が江戸城に移ると伏見城は廃城とされ、遺構は各地に移ります。元の山に戻った木幡山には桃の木が植えられ、通称“桃山”と呼ばれる様になりました。
後の世に『安土桃山時代』と呼ばれるこの時代の、伏見城を中心とした後期を『桃山時代』と呼ぶ所以です。

駐車場は伏見桃山城運動公園のパーキングを利用 公共施設ながら有料です しかも\300/h

東側の丘陵一帯が城址みたいですが、ここは明治天皇陵になっていて入れません

陵墓の参拝はOKなので、参道を歩いて雰囲気を探ってみます
伏見城があった桃山丘陵は宇治川の北岸に位置し、当時は南の低地には巨椋池が広がっていました。
付近には昔から城郭はなく、歴代の天皇陵が点在し、かつては貴族の別荘が構えられた場所でもありますが、秀吉がこの地に眼を付け、築城を始めたのは文禄元年(1592)の事でした。
この前年、秀吉は関白の位を甥で養子の秀次に譲り、内政の大半の権限を譲渡しています。
そんな背景もあって、伏見の新城は厳密には城ではなく、秀吉の隠居屋敷の邸宅であり、場所も丘陵の上ではなく、巨椋池の畔の高台である“指月”でした。
秀次を後継にして聚楽第で執政させ、自身は妻妾の居る大坂城と京の間に住んで後見人に徹する…もしくは外交に専念するつもりだった様ですね。

伏見城と言っても、場所を変えて建て替えが行われた様ですね 地形図で見ると城跡なのが一目瞭然です。 しかし…付近の町名が凄い!誰の屋敷跡か判りますね。

天皇陵に隣接する土地は宅地化でほとんど改変されている様です

広い砂利敷きの参道が延々と続きます 樹林の中にも城の遺構は見当たりません

沿道に城の石垣の石が展示されていました 算木の隅石に使える良質なものですが、転用されなかった様です
しかし翌文禄2年に秀頼が生まれると隠居屋敷計画は大きく変更され、自身の居城として本格的な大城郭:指月城の建設が始まります。
名護屋城の築城も間もないこの時期、木材や石材は東北や四国などの遠国からも調達され、淀城(古城)を廃城にして天守と櫓を移築したそうです。
そうした変化は関白:豊臣秀次を疑心暗鬼にさせ、『秀次事件』の呼び水となりました。
秀次を自害させた秀吉は、聚楽第を破却するとその遺構も大半を移築して指月城は完成しました。
指月城がどんな城だったかは詳しくは判っていない様ですが、城を中心に諸大名と家臣団の屋敷が建ち並び、大和街道も城下に呼び込んで、大坂と京を結ぶ湊も整備されて、自然と町人も集まる様な一大都市を形成していた様です。

治部小丸の辺りです、山の斜面(版築土塁?)なのは判りますが…(^^;

そうこうしてる間に陵に着きました この柵の位置で参拝します。 陵の裏手の丘が本丸跡ですね

テントが張られ、黒服がいっぱい居たのでピリピリ感がありましたが、この日は上皇様が参拝された前日でした。

南側からの参道は長い石段になっています こう見ると城の要害である事が判りますね
竣工間もない指月城を大地震が襲ったのは文禄5年(1596)7月12日の深夜の事でした。
天守が崩落して建物や石垣に甚大な被害が出ました(倒壊した建物の下敷きになって600人の奥女中が死んだそうです)が、暖かい時季の夜中だったのが幸いして火災は起きませんでした。
北東の木幡山に仮設住宅を建てて難民暮らしとなった秀吉は、指月の地盤の弱さを痛感したのか、再建場所は木幡山と決めてすぐさま築城を指示します。
賦役は折りから進んでいた朝鮮再出兵計画に渡海しない留守居大名による天下普請で、真田昌幸も作事奉行の一人でした。
指月城の廃材を最大限に使った築城は急ピッチで進み、地震の1年後には木幡山城の中枢となる本丸御殿と5重6階天守が完成し、秀吉が入りました。
あまりの速さゆえ、木幡山移転計画はかねてから進められていたとする学者さんも居ます。

豊臣伏見城縄張り(木幡山城=日本城郭体系より) 現状地形より起こした図なので土塁形状に見えますが、実際には総石垣の城です
浅野弾正、長束大蔵、前田徳善、石田治部、増田丸と、奉行の名前の郭があります。
側室も松の丸殿=京極竜子、三ノ丸殿=織田信長娘と、晩年のお気に入りを連れて来ていた様で、城下の前田屋敷には加賀殿=利家の娘を住まわせたとも言います。

そしてこちらは徳川伏見城(浅野文庫版)
変化点は北側と南側の郭は廃止され、城域が縮小しています。
上図の中心部に石垣を積んが姿がこの図と言えますが、治部小丸がその名も含めて残されたのが面白いですね。
入城以来の殆どを木幡山城で過ごした秀吉でしたが、翌慶長3年(1598)8月18日に世を去ります。
朝鮮からの引揚げ、石田三成の失脚、城代として在城していた前田利家の死などがあり、木幡山城には新たな城代として徳川家康が入ります。
関ヶ原の戦いの前哨となる上杉征伐には此処から出陣したのですが、その留守の間に石田三成が反徳川勢力を糾合して兵を挙げ、木幡山城は4万の兵に囲まれました。
城を守るのは家康譜代の鳥居元忠以下2千の兵で、果敢に防戦しますがすぐに力尽き、木幡山城の殆どの建物が焼失してしまいました。

麓の御香宮神社の正門は伏見城大手門の移築だそうです

大きく立派な薬医門です

この神社にも積み石が遺っていました

門前にはこんな立て札も… 福島正則邸跡なんですね
関ヶ原で勝利した家康は、豊臣臣下の体での大坂入城の愚を避け、木幡山城の再建・居城化を決めます。
慶長6年(1601)3月から始まった再建には、普請奉行:藤堂高虎、作事奉行:小堀政次、大工頭:中井正清のゴールデントリオがあたり、その年の末には普請を終えて家康が入城します。
再建された城は『伏見城』と呼ばれ、家康の将軍宣下や朝鮮との講和、2代秀忠の将軍宣下など、徳川幕府初期の主要なイベントはすべて此処で執り行なわれました。
しかし幕府が軌道に乗ると、徳川政権の中枢は江戸へと移ります。 家康も隠居城を駿府城として移ったので、伏見城の機能は“将軍上落時の居館”に限定されて行きます。
それも二条城の築城により不要になると、元和9年(1623)、3代家光の将軍宣下を最後に伏見城は廃城となります。
遺構は天守が二条城に移築されたのをはじめ、同時期に新築城となった福山城や明石城に多くの櫓が活用され、それでも余る建物や積み石を使って伏見城の南西6kmの地に淀城(新城)が築城されましたが、桃山丘陵には尚も残された石が無数に散在します。

福山城伏見櫓は伏見城から移築されました

同じく月見櫓と御湯殿もお下がりだと言われます

そして姫路城の菱の門も… なんとなく徳川伏見城の雰囲気が判りますね
大正初期、明治天皇崩御に伴って伏見城の跡地が陵墓となり、城址のほぼ全域は立ち入り出来ません。
城址復元も自由な散策も出来ず、全山がほぼ樹林に覆われてているので、遺構の視認も困難な困った状態ですが、すぐ近くには桓武天皇陵もあり、秀吉、家康により使われた30年間を除いて、本来の姿に戻ったのかも知れませんね。

豊臣伏見城の意匠は不明ですが、上手く雰囲気を出してる気がする復興の模擬建築群

大天守は望楼型の5重6階で、破風の懸魚なんかセオリー通りです(^^;

昭和39年になって、明治天皇陵に隣接する木幡山城花畑跡地に遊園地ができ、そのシンボルとして伏見城の大天守、小天守と大手門が建設されました。
もちろん鉄筋コンクリート造りの“ニセモノ”なんですが、外観は秀吉の木幡山城の天守を彷彿とさせる意匠で飾られており、なかなかにスグレモノです。
その為か、近年に遊園地が閉園になった以降も“市民の声”で京都市に譲渡されて遺っています。
中には入れませんが外観は間近で見れるので、伏見を訪れた際にはぜひ寄って見てください。在りし日の木幡山城をイメージできると思います。