五月晴れに恵まれた516日に登城した大和郡山城をUPします。
 
 
日本200名城 №165  大和郡山城 奈良県 登城日:2019.05.16
 
 
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 別名        雁陣之城
 城郭構造   輪郭式平山城
 天守構造   伝・5層6階(1583年築・非現存)
 築城主     郡山衆及び筒井順慶
 築城年      1162年(応保2年)及び1580年(天正8年)
 主な改修者  筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛
 主な城主   筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏
 廃城年     1873年(明治6年)
 遺構       石垣、堀
 指定文化財  奈良県指定史跡
 再建造物   追手向櫓、東櫓、追手門
 所在地     奈良県大和郡山市城内町
 
 
 
 郡山城は“大和郡山城”と銘記するのが一般的な様です。
これは、広島にある吉田郡山城との混同を避ける故の事と思いますが、毛利元就の居城:郡山城(百名城)がよりメジャーだという事なのでしょうね。
 この記事に限っては、タイトルに『大和郡山城』としてあるので、文中では“大和”を省略します。
 
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R25桜峠から見下ろす奈良盆地
 
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郡山城は盆地北部の大和郡山市にあります
 
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城址は本丸、二ノ丸がほぼ完全な状態で残っており、城跡公園になっています
 
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本丸大手の追手門の復元櫓門 この前に訪城用の駐車場が用意されています
 
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復元されているのは櫓門の他にこの追手向櫓と多聞櫓…
 
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そして東に少し離れた東隅櫓 いずれも秀長時代を思わす意匠で復元されています
 
 
 
 郡山城の起こりは室町時代初期に遡り、“郡山衆”と呼ばれる小豪族達がこの比高10mあまりの小丘陵に集住し、“雁陣”の形に居館を構えた事によると言われます。
 戦国初期、郡山衆は“越智勢”に加わって筒井勢と激しく戦いましたが、やがて筒井氏の軍門に下り、筒井勢の一翼を担って行きます。
 
 戦国中期の松永久秀との戦いでは、本拠の筒井城が落とされる劣勢の中、郡山城だけは頑強に守り抜きました。
 
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正保絵図 輪郭式の堂々たる縄張りですが、小じんまりしていて、石垣部分も限られ、櫓が少ないのは意外ですね
 
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追手門から本丸に入ります 五三桐紋の城はかなり貴重です
 
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郡山城の本丸は天守台のある本郭と幾つかの郭に分かれていた様で、追手門の内側は法印郭と呼ばれていました
 
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その南側は毘沙門郭 かつては土塀と冠木門で仕切られていました 本郭へはこちらから行きます
 
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毘沙門郭は庭園になっていて、東屋が復元されています 菱紋は柳沢家ですね
 
 
 
 松永久秀が織田信長によって滅ぼされると、大和国は筒井順慶の領地とされます。
順慶は居城を筒井城から郡山城に移して、本格的な改築を始めます。 目付には明智光秀が派遣されたと言いますから、信長にとって畿内支配の重要な拠点と位置付けられていた
様です。
同時に光秀と順慶の交流が始まった城ですね。
 
 
 “本能寺”の後、光秀の誘いに乗らなかった順慶は大和の領有を安堵されますが、秀吉が天下人になると筒井氏は伊賀に転封となり、大和には豊臣秀長が入ります。
 
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毘沙門郭には“柳沢文庫”があり、ここでパンフを貰う予定でしたが、生憎休館中なので掲示してあるパンフを撮って代わりにします(^^;
 
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堀の向こうの本郭側では、何やら石垣の修理中…
 
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ではなく、大手の白澤門に渡る極楽橋が復元される様です
 
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復元イラスト この景観に一歩近づく様ですね
 
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橋が出来るまでは、突き当りの土橋から本郭に入ります
 
 
 秀長は秀吉の3歳下の実弟で、若い頃から秀吉を補佐していた、豊臣家の副将といった立場の人物ですね。
 秀吉が天下を取ると播磨、丹後を与えられ、姫路城を居城にしていましたが、四国征伐が終わると和泉、紀伊、摂津の一部に国替えになり、新たに和歌山城を築城して居城としました。
 
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本郭に入るとすぐ右手には二ノ丸へと続く土橋“竹林橋”が
 
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左手には続百名城碑があって、選定に合わせて造られたのか、新しいトイレが
 
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トイレの奥が白澤門跡で、櫓台の修理が行われていました
 
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本郭は総石垣で高石垣が積まれていますが…
 
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後世に改修されたのか、かなり反りがありますね
 
 
 しかしその和歌山城も竣工しないうちに起こった九州征伐の戦功で、領地に新たに大和国が加えられると、旧筒井氏の居城:郡山城を改築して居城とする事に方針が変わります。
 秀長の領地だけで考えると、もう北の端の郡山城では統治上での不都合もあったでしょうが、政治の中心である大坂城や京、その後の伏見築城まで考えると目と鼻の先であり、
これには秀長を頼りに思う秀吉の意向が多分に入っていたんでしょうね。
 
 
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郡山城の築城タイミングと工期 相当な突貫工事だったのが判ります
 
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天守台 石垣は野面積みでもかなり雑な積み方です
 
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石材も伐り出しではなく、既存の施設からの調達転用が殆どだった様で…
 
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有名な逆さ地蔵 石仏や墓石もなりふり構わず積まれています
 
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この隅石は平城京の羅生門の礎石だそうです。
 
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これも巨大な建物の礎石ですね
 
 
 郡山城の改築は、筒井氏の縄張りをゼロから見直す大々的なものになりましたが、僅か1年ほどの間に完成させる突貫工事で行なわれました。
その急ぎ具合は石垣の石材調達に顕れていますが、何をそんなに急ぐ理由があったのか? 郡山城の大きな謎ですね。
 
 そしてもう一つ大きな謎なのが、城の出来映えというか規模感です。
現存する遺構から想像する限り、そこそこ立派な城郭だった事は伺えますが、どう見ても10万石クラスの大名の城にしか見えません。
 豊臣秀長は大和、和泉、紀伊3国と摂津の一部を領する100万石の大大名です。
同等な規模の大名の城といえば、毛利輝元の広島城、上杉景勝の会津若松城という事になりますが、明らかに見劣りしますね。
 
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天守台には遠足の幼稚園児が居て、賑やかでした(^^;
 
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さらに気になったのが石垣の上端に天端石がありません。どうやって天守を建てたのか?
天守台の大きさは歩測で10間×9間。5層6階の望楼型天守は無理っぽいです。
 
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天守台から東(奈良市方面)の眺め
 
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こちらは西の大坂方面の眺め
 
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眼下は本郭の東側 隅の櫓台は月見櫓のものです
 
 
 しかも秀長は秀吉の唯一の弟で、豊臣政権のナンバー2です。
秀吉に遠慮が必要などころか、『表向きの事は秀長に、内々の事は利休に聞け…』と言ったくらいの存在なので、その居城となれば大坂城に匹敵する巨城であって然るべきなのですが…。
 
 
 改めて秀長という人の特異な生き様に関わって来ますが。
この人は自身を“大名”と思っていないのは明白ですね。
あくまでも兄:秀吉の黒子に徹し、豊臣政権の維持・発展にのみ心血を注いだ人なんでしょう。
 自分が動く時は秀吉政権と一心同体だから、個人で動く事など無い… つまり自分の領地や家臣団を守る戦いなどは念頭になく、想定外だった訳ですね。
 
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天守台は近年に解体修理されて、その時の様子がパネルで展示されています。これは勉強になりますね。
 
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3D技術の発達は、石垣の解体~積み戻しを容易にしています
 
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竹林門から二ノ丸に出て、外から本郭を見ます この石垣はスキマだらけ(*_*;
 
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中から地蔵さんが覗いています
 
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 自分の役割としては、大坂城の次の主を育てる事が急務であり、次に豊臣一族が未来永劫に繁栄すればなお良い。
自身の居城の事など、雨露が凌げたらどんな所でも良いと思っていたに違いないと思います。
 
 完成した郡山城には秀吉もさぞ面食らった事でしょうが、秀長にはまた違った戦略感があって、広大な領地から上がる年貢や特権からの収益は違った使い方を考えていた様です。
その戦略の一端が垣間見えるのが高取城築城ではないか…と思うのですが…。
 
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法印郭から見た天守台周辺 この辺りの石垣は高虎の匂いがしますね
 
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同じ角度での復元イラスト 無理に5層天守にするとズングリしてしまいます
 
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豊臣秀長画像 何を考えていたのか…謎は深まります
 
 
 秀長の死後、大和大納言家は養子の秀保(姉の子)が継ぎますが、すぐに病死したため断絶してしまいます。
徳川の世になった江戸時代には水野、松平、本多と主要な譜代が入り、中期以降は柳沢氏が甲府から移ってきて、15万石で明治を迎えます。