2に巡った伊勢・長野氏の城、今回は細野城と安濃城です。
 
 この両城とも城主は細野氏です。
 
細野氏は長野氏5代:豊藤の子:藤信が分家して立てた家で、長野城にほど近い美里村北長野に細野城を築城して拠点としました。
 
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『勢州軍記』より引用 この書は神戸氏の後裔:神戸良政が江戸初期に記したもので、他家のため数値はアバウトですが、長野家臣団の概要は掴めます
 
 
 『戦国末期の弘治年間、細野藤光は東の安濃川沿いの平地に出て、新たに安濃城を築城して移り、細野城は宗家で君主の長野氏が居城とした
以上は少し前までの文献の記述で、疑問点が多々あったのですが、最近は少しずつ変わって来ている様です。
 
 
 
細野城
 細野城は伊賀街道が長野の集落に入る手前の右手の山塊の尾根上にある山城で、街道を扼す様に築城されています。
 
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『日本城郭体系』より 細野城縄張り 別個の城に見えますが…
 
 城の概要は、異なる三つの尾根上にある東の城、中の城、西の城の三つの城から成り、総称して“細野城”とされた様です。
 しかしこの三城、それぞれが独立した城塞の形式を採っており、どう機能したのか、誠に解釈の難しい城でもあります。
 
 訪城のための入り口は街道(R163)脇の、東の城と中城の間の谷間から入る様になっていて、国の史跡だけに道路上に案内看板もありますが、看板には“細野城跡” ではなく“長野氏城跡”とあります。 ありゃま~(^^;
 
 さらに登城口の看板には“長野氏城居館跡”とより具体的に書かれていて、結局はこの記述が私の抱いていた疑問にすべて答える形になりました。
 
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細野城はここの筈なんだけど… 名前が違う
 
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此処から入って行く様ですが、細野さん引っ越したのかな?
 
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谷底を登って行きます 所々に石垣の遺構がありますが…
 
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当時の物かは不明ですが、大手道があったとしても不思議じゃない谷間です
 
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長野城との位置関係を立体図で見ると一目瞭然ですね
 
 
 
 実は前回、長野城を訪ねた際に、その立地と構造から“詰め城”以外に有り得ないと思い、此処を長野氏の居城とする文献に疑義を持っていました。
 長野氏には直属の家臣が千人居て、家族も含めると最低でも3~5千人の生活の場が必要です。
家臣の大半は専業の武士ではなく、平時には農耕を営む農民であり、農業には平らな田畑と水が必要な訳です。
 
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東の城への分岐 こちらから順に見て行きます
 
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虎口には石垣の跡も…
 
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長い尾根には土塁痕の盛り上がりも見られます
 
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頂部は二段に分かれ、上段はまとまった削平地
 
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下段は幅のある帯曲輪ですね
 
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詰め城の長野城からの視界も良好。(鉄塔のところ)
 
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なぜかタマネギ状剥離石の多い山でした
 
 
 そうした平時の暮らしの至近に領主の館があり、すぐに集まれる“根城”が在った筈です。
“詰め城”なんて物は、戦っても100%勝てないと判ってる時だけに使う物なんですよ(^^;
では“根城”は何処なのかと辺りを見回した時、細野城しか無いんですよね、長野氏の居城は
 学者さんもすでに詰め城に“長野城”と名付けてしまってるから、苦肉の策での“長野氏城”の命名。 でもこれでスッキリしました(^^
 
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分岐に戻ってさらに奥へ進み、今度は中の城へ この虎口は北側に空堀が(写真中央)
 
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尾根上を進むと堀切で遮断されています
 
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すぐに二つ目の堀切
 
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その土塁を背負う様に主郭(?)が さほど広くはありません
 
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城址は広い尾根状に南へ続き…
 
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最後は物見台状の土壇のある平場になっています
 
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物見台(?)の向こうはストンと落ちていて、此処には投石がたくさん集積されていました
 
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中の城からも長野城はよく見えます
 
 
 
 では細野氏の城は何処なん?という事になりますが、独立した三つの城の使い分けですね。
西の城の北側の谷間は今でも“細野”地区と呼ばれてるそうです。
分家した家が居住する地区を姓にするのはほぼ慣例ですから、西の城が細野氏の城と見るのが妥当ではないでしょうか。
 そうするとあとは長野氏の居館と根城の使い分けです。
平地と輪郭の縄張りから、東の城が居館跡、中の城は凝った縄張りから根城に使われた気がします。
 
 
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また分岐に戻って、最後の西の城へと進んで行きます 藪が酷くなってきた
 
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西の城はヒノキ樹林の中にありました
 
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登り詰めた主郭(?)ですが、笹が茂っていて地形がよく判りません
 
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同様な郭が二つ続き…
 
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最後はかなり段差のある小郭を以って…
 
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北へ落ちて行きます
 
 
 長野集落の北の高台にある“城屋敷”と伝わる削平地も居館跡と見るべきですが、これは実質最後の当主だった長野具藤による造営と見ます。
 
 具藤は北畠具教の二男で、長野氏が北畠氏に屈した際に養子として入って当主になった人ですが、公家大名で国司を自認する北畠氏の居館は、分家にいたるまで“御所”と呼ばれました。
つまり居館“長野御所”は庭園を備えた京風の館が求められた訳ですが、東の城の山上ではそれは無理なので、場所を変え新たに造営したのでしょうね。
 
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城屋敷は削平地が拡張されて、小学校になっていました…
 
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城屋敷から見る長野集落と、左側の山が中の城跡、その向こう側の山は東の城跡
 
 
 
安濃城
続いて安濃城址にやって来ました。
 
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安濃城は平地に下りた田園地帯にあります
 
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主郭跡の神社にあった看板 汚れて見えなかったので、クルマの雑巾で拭いてから撮影(^^;
 
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連郭式の、戦国としては大きな城ですね。 ただ、手前の方は土砂採取で失われています。
 
 
 安濃城は長野の東8㎞の平坦な田園地帯にある丘城で、戦国末期に細野藤光が長野から居を移して築城しました。
 弘年間は、北畠具藤が養子に入って来たタイミングなので、藤光が反抗的な態度(仲が悪かったらしい)を示したので左遷されたのか? または、北に隣接する関氏が近江の六角勢力である蒲生氏と連携して活動を活発化させた時期とも符合するので、長野氏として中原の穀倉地帯を死守する決意での築城なのでしょうか
 
 真実は置いといて、次の永禄年間には岐阜の織田信長が南下の動きを示した為、藤光の子:藤敦は安濃城を中伊勢最大規模の城郭にまで拡充して構えました。
 藤敦は“織田を止める”ために、長野氏として安濃城に兵力を集中し、家を死守する思惑だったのでしょうね。
 
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一番奥の主郭跡にある阿由多神社にしか駐車場が無いので、ズンズン入って行きます
 
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全山が孟宗竹に覆われて、遺構が見にくいタイプの城址なのですが…
 
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神社の周りだけは拓かれていて、土塁痕が確認できますね
 
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大堀切も肉眼では見えるんだけど、写真には写りません
 
 
 
 永禄11年(1568織田信長は神戸氏と和睦を結び実質傘下に収めると、すぐさま長野領に侵攻する構えを見せます。
しかし前年の神戸氏との苦戦に懲りた信長は和戦両面で長野氏に工作し、和睦案も提示されていた様ですね。
 
 和戦両派に分かれた長野氏でしたが、当主の具藤と藤敦はともに抗戦を強く主張し、抗戦派が主流になる中、藤敦の弟で分部氏を継いでいた分部光嘉はもう既に信長に通じていて、細野藤敦が織田に寝返った!と具藤に讒言します。
 
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主郭跡は細野城に比べると何倍も広い、新しい時代の城ですね
 
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主郭への虎口の空堀と土橋もハッキリ確認できます
 
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城兵のものと思われる墓石も、集められて無縁仏化してるのはちょっと哀しい
 
 
 主戦派同士とはいえ、元々仲の悪かった具藤は追討軍を送り、藤敦はやむなくこれを打ち破って、具藤は生家の北畠氏へ逃げ帰る事態となりました。
 抗戦派の戦力が半減した事で、藤敦もついに抗戦を諦めて和睦案を受け入れ、長野氏には信長の弟の信包が養子として入り、長野氏も織田氏の傘下になりました。
 
 
 しかし藤敦は信包とも上手くやれず10年後の天5年(1577)、信包の留守を狙って謀反を起こし、長野(氏)城を乗っ取りますが、思ったほどの兵力が集まらず、すぐに包囲され降伏開城を余儀なくされます。
 細野氏には滝川一益の子:八麿が養子に入り跡を継ぎ、落ち延びた藤敦は専修寺に隠れ、のちに蒲生氏郷を頼って家臣になったといいます。
 
 
 
つづく