全国的に絶好のお花見日和となった7日の日曜日、衆目が公園へと集まる中宇陀松山城へと出掛けました。
日本200名城 №166 奈良県 宇陀松山城 登城日2019.4.7

別名 秋山城、神楽岡城
城郭構造 山城
天守構造 なし(不明)
築城主 不明(秋山氏?)
築城年 南北朝期
主な城主 秋山氏、加藤氏、福島氏など
廃城年 元和元年(1615年)
遺構 移築門、石垣、曲輪、堀切
指定文化財 国の史跡
所在地 奈良県宇陀市大宇陀春日
宇陀松山城がある大宇陀は初瀬街道が大和盆地に出る手前の盆地にあり、吉野を経て伊勢へと通じる“伊勢本街道”を扼す形で城が築かれています。
宇陀松山城は別名:秋山城と言う様に、土地の豪族:秋山氏が古来から拠点としていた城で、その始まりは鎌倉期まで遡る様です。

城の位置関係 自ずと南北朝の争いに巻き込まれざるを得ない場所です(^^;

城山の中腹に立派な駐車場があるのをgoogle mapで確認しての登城でしたが…

国道沿いの道の駅にクルマを停めて、麓から徒歩での登城です

はじめに登城口にある千軒舎(街並みガイダンス施設)に寄って、パンフを貰います

展示の復元イラスト 予想外に凄いけど…千田先生の監修なら疑う訳にはいきません(^^;
何でもアリの羽柴秀長が関わってると、夢は無限に拡がります。
本格的な城塞として整備されたのは南北朝の争乱の時で、秋山氏は地勢上南朝に与していて、南朝の有力大名の北畠氏の与力として共に転戦しています。
南北朝合一後も、伊勢、伊賀と境を接する宇陀郡には北畠氏の影響力が残り、“宇陀三人衆”と呼ばれる秋山氏、沢氏、芳野氏も北畠氏の力を上手く活用して、本来の大和守護職である興福寺の圧力をかわしていました。

千軒舎の裏口から登城路に出られます

『崖崩れで止めてる』けど、本来は車道の登城路 コンクリ舗装で雪対策もされています

右手の尾根上は秋山氏の根古屋の跡らしいですが、整備はされていません

上下二段の駐車場まで来ましたが、崖崩れはありませんでした(^^; 何か別の理由があるんでしょうね。 歩いても10分ほどですから問題ないですが…使わないなら勿体ない整備です
応仁の乱の頃になると、秋山氏はじめ宇陀の三人衆は完全に北畠氏の配下に入っており、北畠氏の拡張指向と相俟って、大和勢や近江の六角氏、はたまた北伊勢の勢力との戦いにも参加しています。
戦国中期の永禄二年(1559)、大和に松永久秀が侵攻して来て宇陀郡が戦場になると、沢氏、芳野氏が北畠氏に加勢を頼んで対抗したのに対し、秋山氏は松永久秀の側に鞍替えする途を選びます。
最終的には筒井順慶の配下に組み込まれた様で、天正十年(1582)の山崎の戦では“洞ヶ峠”に出陣した順慶に代わり筒井城を守備しています。


駐車場の上にあった縄張り図看板 比高100mの城山に梯郭に築かれた山城で、本丸周辺が石垣で改修されてたみたいですね

戦国の山城そのものの登城路を少し登ると…

虎口の郭塁が現れました

草木が一掃されてて、遺構が見やすくなっています。石垣も若干残っていますね

山腹にゴロゴロ散乱する小石が石垣があった事を証明しています たぶん裏籠めの栗石
豊臣秀吉の天下になると、宇陀の三人衆には伊勢松ヶ島(のちに松阪)の蒲生氏郷の与力が命ぜられます。
二年後の天正十二年、大和の領主:筒井氏は伊賀に国替えになり、大和には秀吉の弟:豊臣秀長が入って来ました。
秀長は大和支配の重要拠点のひとつとして秋山城(宇陀松山城)を位置づけた為、秋山氏は先祖代々の城と領地からの退去を余儀なくされます。
新たな領地が何処だったのかは調べても判りませんが、おそらく南伊勢の何処かで3千石程度が与えられていたのでしょう。

虎口右手の櫓台をトレンチして現れた基底部の角石

中央部もトレンチすると石垣の壁面が現れています

こんな感じで石垣が建ってた訳ですね。 破却時に半分だけ崩して落とした事が判ります

櫓台の上から見た枡形の様子

本丸壇上はきれいに削平されてて、御殿が造営されていました 奥の高みは“天守郭”
その蒲生氏郷も天正十八年(1590)には奥州会津に移封となりますが、秋山氏は同行を拒んで浪人し、故郷の大和宇陀に戻った事が判っています。
その後の秋山氏の動向は、秋山直国(右近)が徳川家康に仕官して旗本として上杉征伐に参加しています。
しかし直国は関ヶ原の本戦では西軍に加わった為に改易になり、その後は豊臣秀頼に仕官するも、大坂の陣で討死にした為、秋山氏は滅亡しました。
*徳川家臣のまま大坂の陣で没したという説もあります。

本丸から天守郭にかけても石垣が腰巻状に残っています 破却時に崩されたのか?

千田先生のイラストをもう1枚 ほぼ総石垣ですね。 ポイントは多聞櫓で、総石垣、少なくとも鉢巻きにしないとこれは建ちません

天守郭の低めの石垣も徹底して崩されています

天守郭から伊勢方面の遠望

こちらは吉野、大峯山方面 ちなみに、天守閣は無かった様です(イラストにはありますが)
秋山氏の去った宇陀松山城ですが、秀長は大和郡山城、高取城に次ぐ重要拠点として位置付け、本格的な城郭に整備し直した…と言われます。
城主にも、加藤光泰、多賀秀種などの大物を配していますから、力の入れ具合が判りますね。
秀長の事ですから、しっかり金を掛けた事でしょう(^^;
秀長が病没し、養嗣子の秀保も若くして没し、大和大納言家が廃絶になると大和には多くの大名が分割して入りますが、宇陀松山城には多田秀種が独立大名として残った様です。
しかしその秀種も関ヶ原には西軍で臨んだために改易になります。

二ノ丸虎口 櫓台が残っていますね 城域の除草は行き届いていて、遺構が良く観得ます

しかし、それは城址を傷める結果にもなります 昨年の豪雨で崩落した土塁

土塁際に列状に遺る礎石は多聞櫓の内側のもの 外側は崩された城壁に乗っていました

城主あらわる! 眠りから醒めたばかりの2m近い大物でした。 守り神ですね。

本丸には歴代の城主を見つめた大樹が何本か残っています 早く葉を広げて風雨から城址を守って欲しいものです
代わって宇陀を領したのは福島高晴でした。
高晴は福島正則の弟で、伊勢長島1万石の大名でしたが、東軍に属したため3万石への加増移封でした。
高晴は城の整備をさらに進め、本丸御殿の造営などを行うと同時に、城下町の本格整備にも取り組んで、現在に残る街並みの基盤を造りました。
居城が秋山城から宇陀松山城に改名されたのも、この高晴の意志だと言われます。
麓の大宇陀の町並みは福島高晴が城下町として整備した“松山町”ですが、廃城の後も街道の利便性を活かして商人が集住する“商家町”として独自の発展を遂げました。
街道には間口の広い大店が並び、『伝統的建造物群保存地区』にも指定されてる町並みなので、少し散策します。

大和名産の葛を扱う商家

造り酒屋は佐々木・京極系? どうよ?

こちらは薬を扱う店で資料館になっていました

お馴染みの奈良漬けの店と和菓子処は現在も営業中

まちなみギャラリー『石景庵』の裏庭 奥の石垣は宇陀松山城址のものだそうです

春日神社参道入り口の石垣 宇陀松山城大手門の遺構で、櫓台です
その一方で、かなりの暴君だったらしく、家臣から幕府に訴え出る例が跡を絶たない程でしたが、兄:正則の手前、処分は為されませんでした。
しかし、大阪の陣が終わった慶長20年(1615)を機に幕府は一気に処分に動き、豊臣方との内通容疑(大阪城に兵糧を運び入れたとされる)を掛けて改易してしまいます。
宇陀松山城はこれで廃城とされ、おそらく築城にも携わったであろう小堀政一(遠州)の手で徹底的に城割(破却)が為されたそうです。