熊野古道歩きの続きです。
この日の最後、三つ目の峠の始神峠(はじかみとうげ)を越えて船津駅まで歩きます。
 
 
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始神峠
 桜もまだ五分咲きの始神さくら広場を通り抜けて、始神峠へと登って行きます。
 
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さくら広場を通り抜けると、峠の入り口があります
 
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しばらく公園の横を歩いた後、いよいよ山中へ
 
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すぐに峠道らしい環境になって来ました…
 
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この辺りからがこの峠の一番の難所ですね
 
 
始神峠も標高は147mとさほど高くはない峠なのですが、越えて行く山塊は海に大きくせり出した半島になっているので、これまでずっと見えてた熊野灘ともしばしお別れです。
 始神という名前、神話に由来するものかな?と思っていたのですが、山椒の椒(はじかみ)が語源だそうで、峠の向こうの大船川流域がサンショウウオの生息地だった事からついた名前だそうです。意外でした。
 
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植林されていますが、紀伊半島自体が花崗岩層が隆起した土壌ですから、石ガラが多い(^^;
 
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そうこうしてる間に峠の頂上です。 ここには明治の中頃まで茶屋が営業してたそうです
 
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頂上から振り返る紀伊の松島 しばらく海ともお別れ
 
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峠を下り始めるとすぐに、右から明治道が合流して来て、道幅が倍になります(^^♪
 
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急坂や階段は無いし、これは軽トラが走れる道だ♪
 
 
 
 これまでの峠道と同様に、歩行者のみで荷駄馬も困難な坂道ですが、実は始神峠には江戸期以前のこの“江戸道”とは別に、明治20年代に造られた“明治道”というのがあります。
古代から、東紀州を貫く唯一の街道だった江戸道ですが、明治維新以降に産業の構造と人々の暮らしが変わり、物流が重要になった事から、“大八車が通れる道”をコンセプトに開通させたのが“明治道”という事ですね。
峠の下りはこの明治道を歩いて行きます。
 
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道を造るといっても、表土は10㎝ほどで、中は岩盤の山ですから、難工事だった事でしょう
 
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大船川源流の沢です 清水が出ていましたが、残念ながら飲用はダメみたいですね
 
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ここからの下り道はクルマの轍があって、林業に使われてる道みたいですね
 
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しばらく下ると綺麗な池がありました。 農業用溜池ですが、良い雰囲気です
 
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池を過ぎると人里に出ます

 
 
馬瀬
 峠を下りると馬瀬の集落。 ここも同じく過疎化の中で野生害獣と闘いながらの静かな寒村の暮らしがあります。
当然ながら、峠道を保守してくれてるのもこの人達な訳で、有難い事ですね。
 
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集落の古道脇にあるトイレ 看板の様な東屋が裏に有りましたが、使う人が少ないからか、ベンチがどかされて自家用車の車庫になっていました(^^;
 
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見事な菜の花を撮っていると、脇のお宅の奥さんが親切に『あれは高菜の花だよ』と教えてくれましたが… 高菜は茎が赤くなかったですか?
 
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パンフにある通り、国道に合流する手前で川を徒歩で渡り、当時の雰囲気を味わいます。 礫性の粗い川砂ですから雨が降らないと水は地下に潜って、水無川になるんです。
 
 
 熊野古道は国道を横切ると、踏切を越えて線路沿いに西へと進みます。
これが旧道なのですが、左手に平地が広がっているにも拘らず、線路は山裾を走り、その上には山を削って開通させた国道が、3本ほぼ併行して走っています。
 なんでこうなのか?と思えば、左手の広い平地は実は“太田沼”という沢沼地で、河口からはかなり内陸だと思うのですが、リアス式海岸の入江の奥はそもそも湿地だった事の名残りを見る事ができます。
 
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広い耕作放棄地…と思ったら、沼でした(*_*;
 
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水辺には鴨や鷺が居ましたが、昔は湿地は危険な場所だったんですね
 
 
 現在の地形を見る限り、熊野古道が岬を廻らず峠越えを繰り返す事が不思議に思えますが、入江の水が管理されて、居住地、耕作地が造られたのはごく近代の事なんです。
 
 
 
上里
 上里に入ると古道は国道と離合を繰り返しながら集落へと入って行きます。
ここはかつては木材の集積地として賑わった場所で、大河内川の上流からトロッコで集められた木材が国鉄の貨車に積み替えられた場所なんですね。
 
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トロッコが走っていた道の痕が街道を交差して行きます
 
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この土手の上を木材を満載して、駅の方へ走って行ってた訳ですね
 
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往時の繁栄を偲べる街並みです この家は商店だった様で…
 
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懐かしい看板が健在でした
 
 
 木材の配送が決まるという事は、当然市場が有って、買い付け業者が集まって来て、札束が飛び交い活況を呈していたという事になります。
旧道沿いにもそんな名残りを伝える、トロッコ道の跡や旅館・商店の面影が残っていました。
 
 
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古道のサロン的な庄次屋さんは本業は何か知りませんが、気楽に立ち寄れる休憩所みたいです 時間が押してたので残念ながら寄れませんでした。
 
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この後古道は国道の側道になります
 
 
 陽も西に傾いて、電車の時間も迫って来ましたが、上里の国道沿いにある修禅寺に源義家ゆかりの宝篋印塔があるという事なので、最後に訪ねてみます。
かに古い印塔がありましたが、説明看板には源義家の子孫で南北朝時代に上里に住んだ松場義澄の墓碑』…という事でした。
 
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本堂の前に苔むした古い宝篋印塔がありましたが…
 
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義家の平安中期より200年ほど時代は下がるみたいですね
 
 
 南北朝期まで下がるなら、足利将軍だって義家の子孫だから、紛らわしいですね(^^;
この松場澄という人物、後で調べても誰なのか判りません。
わざわざ義家の名を出すという事は、その間の世代に有名な人が居ないという事だし、地域性も考えると新宮十郎源行家(為義の子で義朝の異母弟)の子孫かな?
 
 
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5時に船津駅に到着 5時9分の列車で紀伊長島に戻ります
 
 
4月末に馬越峠を越えて尾鷲まで を予定しています。