45日の瀬戸内を巡る旅もついに最終日。
早朝に宿を出て、通勤のクルマに混じって徳島市の中心部を目指します。
 
 
日本100名城 №76 徳島城  徳島県 登城日:2018.12.21
 
イメージ 1


 別名       渭山城、渭津城

 城郭構造   梯郭式平山城
 天守構造   不明1588年・非現存
 築城主     蜂須賀家政
 築城年     天13年(1585
 主な城主   蜂須賀
 廃城年     明治2年(1869
 遺構       石垣、堀、庭園
 指定文化財 国の史跡、国の名勝(表御殿庭園)
 再建造物   鷲
 所在地     徳島県徳島市徳島町城内1
 
 
 徳島は豊臣時代の天正13年に蜂須賀家政によって初めて築城された比較的城歴の新しい城です
 
イメージ 2
8時過ぎに入った駐車場は一番乗りでした
 
イメージ 3
この時期に満開のバラ園があります
 
イメージ 36
『徳島公園』として残る主郭部分 山上の城郭と麓の御殿の構成は松山城と同じですね
 
イメージ 4
渭山の東の麓に残る海食崖 ここまで海だった訳です
 
イメージ 5
数寄屋門付近の石垣 豪壮ではありませんが、雰囲気のある石垣です
 
 
 家政の父は秀吉の股肱の臣で、筆頭宿老でもあった蜂須賀小六政勝であり、それまでは播磨竜野53千石を給されていましたが、四国征伐を終えたこのタイミングで長年の働きに報いる意味で、阿波186千石への大幅加増となった訳ですね。
 しかし政勝は秀吉の側近として常時大坂に居る必要があったので、その前から蜂須賀家の家督は家政に譲られており、徳島城の築造は家政の手で行なわれました。
 
イメージ 6
石材がなんか特殊ですね これは近くの眉山で採れる緑簾石といわれる変成岩で、独特の風合いを醸しています
 
イメージ 7
内堀と石垣の構造は明らかに江戸時代ですが、野面の乱積みの雰囲気は戦国を感じます
 
イメージ 8
内堀は戦時の防塁機能ではなく、藩主の御殿と家臣屋敷の区画を目的に整備されたものの様に見えます
 
イメージ 9
しかし、この石材で積んだ石垣は…
 
イメージ 10
地震には強いでしょうね…たぶん(^^;
 
 
 鎌倉時代の阿波国は、佐々木氏、小笠原氏が守護の領国でしたが、室町期には細川氏が守護として治めていました。
応仁の乱以降、細川氏が衰退して戦国時代になると、その家臣だった三好氏が勢力をつけ、戦国大名として君臨します。
 細川氏~三好氏の拠点は徳島城の北8㎞にあった勝瑞城で、城館を中心に城下町の広がる、中世の阿波の中心地だった様ですね。
 
 長慶の時に最盛期を迎えた三好氏は四国の東半分と畿内一円に勢力を広げ、足利将軍をも意のままに操るほどの勢力を得ますが、織田信長が台頭して来ると急速に没落してしまいます。
 
イメージ 11
先に進んで大手門の枡形まで来ました
 
イメージ 12
内枡形ですが、左手の櫓台には切り石が使われています
 
イメージ 13
対比して見ると緑簾石の方が味が有りますね。 個人の好みの問題ですが…
 
イメージ 14
大手門の外側は三木曲輪という大きな馬出しになっていました。 その門:鷲の門が復元されていますが、城門というより御殿の門の雰囲気です
 
イメージ 15
その石垣が綺麗に見える場所に史跡碑が建っていますが…
 
イメージ 16
明治初期の鷲の門と石垣上の櫓、多聞の姿 やはり城よりも御殿の塀:聚楽第のイメージですね
 
 
 代わって阿波に進出したのは土佐の長曾我部元親で、本能寺の変の混乱に乗じて四国を統一してしまいますが、中央の支配者が豊臣秀吉に落ち着くと討伐を受けて本領の土佐のみに押し込められ、代わって阿波に入ったのが蜂須賀氏という流れですね。
 
 阿波に入った蜂須賀家政は、南西に7㎞ほど内陸にあった一宮城を居城にしますが、現在の地にすぐに新城の築城を開始し、1年半の工期を経て完成したのが徳島城です。
 吉川の河口付近の中州にあった渭山を中心に連郭式の縄張りを持つ徳島城ですが、これまで見て来た城郭の様に大規模な土木工事で造られた城ではありません。
 
イメージ 17
正保絵図:徳島城
 
イメージ 18
山上の城塞部へと登って行きます
 
イメージ 19
山上には石垣が巡り、虎口部分には強固な枡形が
 
イメージ 24
この石もやはり緑簾石です
 
イメージ 25
この高石垣の雰囲気は安土城(^^♪
 
 
 正保絵図でお判りの様に、デルタ地帯の分流を堀として、中州を郭として、人工の掘割などは最小限で自然の地形を最大限に活用して造られた城ですね。
 いささか心許ない防備にも見えますが、蜂須賀家の出身地は尾張国海東郡蜂須賀郷で、木曽川水系での水運を生業としていた国人だそうですから、川を使った水郷地帯での戦い方には多くの知見を持った一族だった筈です。
おそらく十分に計算され尽くした縄張りなんでしょう。
 
 そううと、墨俣一夜城の構想自体が、秀吉ではなく小六政勝によるものだったんじゃないか? という気もして来ます。
 
 
 
イメージ 20
本丸の広場は結構な広さがありますが、周囲に多聞が有るだけで、日常の生活空間ではなかった様です
 
イメージ 21
清玄坊塚 家政は城域にあった寺社に立ち退きを命じましたが、唯一従わなかった清玄坊は家政によって殺害されます。 それから蜂須賀家には変事が相次いだ為、家政は自らの行為を悔いて、末代までその菩提を弔っているんだそうです
 
イメージ 22
渭山の南側は徳島市中心街
 
イメージ 26
本丸から東に一段下がった東二ノ丸 天守は此処にありましたが、天守台の無い三階建ての櫓で、礎石の上に直接建っていました
 
イメージ 23
この辺りの石垣は、戦国も初期の石垣を彷彿とさせる姿です
 
 
 
 家政は秀吉の死後は終始家康シンパの大名として振舞い、徳川幕府でも大名として生き残りを果たします。
最終的には257千石まで加増された蜂須賀家は、阿波徳島を一度も動くことなく明治維新を迎えています。
 
 
 
 
【14代:蜂須賀茂韶と明治天皇
 維新後、徳島藩最後の藩主の蜂須賀茂韶が明治天皇のもとに参内した時の逸話です。
の出座を待っていた茂韶は時間を持て余して、テーブル上にあった天皇のタバコを一本頂戴しようと手を伸ばしました。
ちょうどそこへ天皇が入って来られ、目聡く見付けた天皇は蜂須賀! 血は争えんのぅ!』…と仰ったのだそうです。
 
イメージ 27
蜂須賀と言えば小六政勝! あれ?最近TVでよく見る顔ですねぇ(^^;
 
 これは何を言ってるのかと言うと蜂須賀家の家祖ともいえる小六政勝を揶揄したもので、江戸初期に儒学者小瀬甫庵によって書かれた太閤記は秀吉の立身出世を面白おかしく書いた一代記で、身分を問わず広く読まれたベストセラー本でした。
ところが、そこに登場する小六政勝は盗賊の親分として書かれていたのです。
 
イメージ 28
城内に立つ家政像 昔は正勝像だったそうですが… いえ、急遽入れ替えた訳ではありません
 
 
 もちろん、これは明治天皇の特有のジョークで、小六政勝は美濃斎藤家→織田家と仕えた家臣団の一員だったのですが、蜂須賀家はこの“風評被害”に本当に迷惑して悩んでいたですね。
 しかし、“正勝の血筋”を辿って行くと、意外な事実も判明しています。
 
イメージ 29
 
 徳島藩主としては8代で途絶えてしまった正勝の血脈、松平や佐竹の血に替わり、最後の茂韶は盗賊どころか徳川宗家の直系です。
 一方の明治天皇はと言えば、意外や意外! 正勝の血が女系を経て現在の天皇家へと繋がっていたのです(^^;
 
 
 

【📷初見参:鳴門のうず潮】
此処まで来たついでに、名勝:鳴門のうず潮にも寄って行きます。
そんなに遠くない場所に住んでいるのに、恥ずかしながら初めて訪れます(^^;
 
イメージ 30
大鳴門橋で淡路島へ この下に渦潮が現れます
 
イメージ 31
近くの道の駅から橋脚へ 最近は観光船に乗らなくても、この橋の上からも渦潮が見られます(渦の道)
 
 ちょうど大潮のタイミングなので、観潮船を探しましたが、あいにく一般用の船が修理中で乗れませんでした。
しかし、これは橋から見下ろした方が遥かに迫力がありますね。
 
イメージ 32
上の方に幾つか渦が出来てますが、昔の洗濯機みたいなのはそうそう出来ない様ですね
 
イメージ 33
渦に突っ込んでいく観光船 あ、これは事前予約の団体専用船です
 
イメージ 34
鳴門の瀬戸は海の難所ですが、海底に大きな段差があり、潮が引く時の強い流れが渦を発生させる様ですね。 上から海底の様子を見ると、そのメカニズムがよく解ります。
 
 

イメージ 35
最後は明石海峡大橋を渡って本州へ 橋桁間の長さは未だに世界一とか
 
 
瀬戸内の百名城めぐり