うどん屋さんを出て、国道319を一路南へ向かいます。
次の高松城へは東に向かわなければ…ですが、折角讃岐に来たので、もう一ヶ所ぜひとも寄りたい場所があります。

本降りになって来ましたが… お、何処かの観光地の土産物屋街?

鳥居に石段の参道? 神社か?

石段の途中に由緒ありげな鼓楼が 讃岐で由緒ある神社といえば…
琴平町にある金刀比羅宮、通称『こんぴらさん』です。
中・四国で育った人は遠足や修学旅行で行った人も多い事でしょうが、私もその一人で、50年ぶりの参拝です(^^;
金刀比羅宮は元は真言宗の寺院でしたが、7世紀頃からの神仏習合により大物主命も祀り、金毘羅大権現として広く信仰を集めました。

石段は続くよどこまでも… 拝殿までは1,368段あります(^^;

ほぼ中間点の書院(重文)

さらに石段は続いて…

2/3地点の旭社(重文) 立派な建築だけど、記憶にありません(^^;
江戸時代には“お伊勢参り”に次いで庶民に人気のある巡礼地だったそうで、多くの人が競って参拝したので、讃岐うどんが全国に知られる契機となった神社ですね。
明治以降は神仏分離・廃仏毀釈で寺院機能は廃れてしまい、晴れて『金刀比羅宮』となった訳ですが、近隣で造船業が盛んだった為か、“海上交通の守り神”として特に漁師や海軍、近年では海上物流業社の信仰を集めています。

最後の石段を登って…

拝殿です 小学生の時ながら、この建物は見覚えがありますね(これも重文)

これは、造船会社が奉納したスクリューのプロペラ
実は私もサラリーマン時代最後の仕事は海上コンテナ物流に関わっていたので、任期中無事に勤めを果たせたお礼と、これからの私的な旅の安全を祈願しての参拝でした(^^♪
日本100名城 №77 高松城 香川県 登城日:2018.12.20

別名 玉藻城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 独立式層塔型3重4階地下1階(現存せず)
築城主 生駒親正
築城年 1590年(天正18年)
主な改修者 松平頼重、松平頼常
主な城主 生駒氏、松平氏
廃城年 1869年(明治2年)
遺構 櫓、門、渡櫓、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(月見櫓・水手御門・渡櫓、艮櫓、披雲閣)
国の史跡
再建造物 御殿
所在地 香川県高松市玉藻町2-1
さて高松城にやって来ました。
この城も今治城、丸亀城に続く海城で、市街の海に面した北の外れにあります。
すぐ隣は海の玄関口の高松港があり、それと接続する(昔は岡山の宇野港との間を連絡船が繋いでいた)JRの高松駅がある繁華な場所ですが、看板表示などもそれらに負けて“埋もれてしまってる”のが第一印象です。

百名城にしては駐車場も狭いけど、訪城者が少ないからいいのか…

すぐ奥に見える桜の馬場の艮櫓(重文) 太鼓櫓ですが親藩ならではの立派な櫓ですね

旭門の高麗門 内枡形門です

園内の案内図は見やすい 残ってるのは全体の1/8だとか
高松城は豊臣時代の天正18年(1590)に、讃岐17万6千石の大名となった生駒親正が拠点として築城した城で、その経緯は丸亀城の回に書きましたが、瀬戸内海の砂地に出っ張る様に縄張りされた、これまた築造の難しい城です。
縄張り自体は生駒氏ではなく、秀吉麾下の大名が手伝った様ですが、誰なのかは判らず、黒田孝高、小早川隆景、細川忠興、藤堂高虎などの錚々たる名前が挙がっていますが、う~ん、小細工が多いから官兵衛かなぁ?

城下絵図 天守が黒いから、生駒時代か?

蔵書から 復元CG こちらは松平時代の様で、御殿の位置や櫓の数が違います

枡形の櫓門(太鼓門)跡

三ノ丸に入る桜門 御殿の前に一文字土居(目隠し石垣)が築かれています
生駒氏は関ヶ原では“所領安堵”で徳川の大名でも生き残りましたが、4代高俊の時、藩の重臣が二派に分かれて争う“生駒騒動”が起きました。
高俊の母は藤堂高虎の娘、正室は大老:土井利勝の娘で、両家の必死の調停が入りましたが叶わず、生駒氏は改易となって出羽へ流罪となりました。

三ノ丸にある御殿『披雲閣』は現存ではなく、高松松平家の別邸として大正6年に建てられたものですが、歴史建造物で重文になっています

その一部は事務所と記念グッズの売店になっていますが、この売店、外に商品の写真が掲示してあって、欲しい時は小窓を開けて品名を言えば売ってくれるみたいです。 これは…無いなぁ(*_*;

あまり見るべきモノが見当たらないので、二ノ丸から本丸へと歩いて行きます 途中の土橋に水門が有り、海と繋がっていますが、潮の満干に関わらず内堀の水量を調節できる様ですね

水門の脇にエサのガチャがありました 此処は堀に鯛が居るんでしたね

さっそく撒いてみると、マダイがうようよ(^^
次いで高松に移封して来たのは水戸徳川家の支藩、下館藩からの松平頼重で、12万石での入封でした。 頼重は光圀の実兄ですね。
その後光圀は頼重の嫡子:綱條を養子に貰い受けて水戸藩主とし、実子の頼常を頼重の養子に出して高松藩主として筋目を正したのは有名な話です。
この頼重、頼常の2代で、高松城は大きく改修された様で、例えば生駒時代の天守は下見板張りの黒い外観だったものを、白漆喰塗りに改められたり、門の位置も変更された様です。

二ノ丸から本丸へ 入り口はこの廊下橋一本のみです

床板を外せば容易には攻められませんが、逆に討って出る事もできない、消極的な縄張り

ここも餌やりポイントみたいで、石鯛が群れています

そして天守台 天守再建を前提に、近年修復されたそうです 安山岩が混じってカラフルな色調
高松松平家は水戸家の連枝として、跡継ぎを補完しながら頼房以来の水戸徳川家の血筋を守り抜き、明治まで続きました。
徳川親藩の城ですから、維新後早々に解体の憂き目に遭ってしまいますが、櫓3棟が修理されながら現存しています。
天守も明治17年までは保存されてた様ですが、老朽化で解体された後は再建は成っていません。

天守はこの地下を含め4重5階でした

破却直前の天守古写真 綺麗な天守ですね

海に面した北ノ丸にある月見櫓 一見コンクリート製?ですが、現存の重文です ただ、非公開なんですよね 一番価値の高い建物なのに、どうして見せないのかな?

披雲閣も一般公開はせず、イベント用の貸座敷に使ってる様です なんか感覚が違うなぁ…
高松市には再建の意思はある様で、文化庁に申請もしたそうですが、割と鮮明な写真が残るものの、指図が無くて内部構造が不明なので許可されないそうです。
そこで市は賞金付きで資料の提供を呼び掛けているそうですが…。
早く見つかるといいですね。
高松城…現時点でも重文がたくさん有るし、見せるモノは足りてると思うのですが、『勝手に見て!、大事な物は立入禁止ね!』って感じで、ガイドさんは居ないし、管理の職員に尋ねてもコミュニケーションは不得手みたいですね。
天守を建てる前に、するべき事は多い様に感じました。

香川の銘菓は『和三盆』 産地はずっと徳島と思っていましたが、皇居で買ったのも香川だった(^^;
この後は徳島に移動して宿泊しました 次はいよいよ最終日の徳島城です。
つづく