瀬戸内の百名城もまだ稿了していませんが、2月に歩いた長野氏の城も忘れないうちに順次UPして行きます。

戦国時代で長野氏といえば、上州箕輪の長野業正が有名ですが、伊勢の長野氏はまったく別の氏族です。
長野氏の起源は、鎌倉初期に御家人の工藤祐長が伊勢国の地頭職となり、その子祐政から伊勢に赴任し、安濃郡長野郷に居を構えて“長野氏”を名乗った事に依ります。
工藤祐長は源頼朝の側近だった工藤祐経の三男で、父が『曽我兄弟の仇討ち』*で殺害された後に、伊勢平氏の所領だった庵芸、安濃の2郡を与えられました。
同時に兄の祐時も日向国の地頭になっており、こちらは伊東氏を名乗って戦国末期まで大きな勢力を保ちました。
*特集あり

長野工藤氏系譜(抜粋)
【長野城】
最初に訪ねる長野城は長野氏が本拠とした城です。
伊勢に下向して来た工藤祐政が本拠とした安濃郡長野は伊賀街道沿いの山間の地で、もう伊賀国に近い辺鄙な場所にあります。
少し前に『三日平氏の乱』が起こった様に、伊勢は平氏の地盤が根強く残る場所で、守護職の平賀朝雅が掌握できてる地域も北部に限られていました。
その最南端に据えられた祐政も、南部の国人達への警戒をなおも要したゆえの居所選択ではなかったかと思われます。

桂畑集落越しに臨む城址 中央上の鉄塔のある位置が城址で、青山高原の風車群のすぐ近く

桂畑からは瀬戸林道の細道をどんどん登って行きます

こんなきれいな清流が目を楽しませてくれますが、運転は要注意!

ここから分岐する林道を登ります 事前情報では大雨による崩落で、ここから2.4kmは徒歩の予定でしたが、もう開通しています。 良い方での誤算は嬉しい(^^♪

ここで長野氏の勢力図(戦国中期) ほぼ津市のエリアと重なります
長野氏の拠城と言われる長野城は、長野の集落からなおも西の谷間を5kmあまり遡った笠取山の峰の山上にあります。
“支配者の城” とは到底思えない、下界と隔絶された様な辺鄙な山城なのですが、築城したのは祐政の子の祐藤による文永11年(1274)と言われます。
この頃の伊勢国は争乱の無い安定期なので、何の必要性からの詰め城なのか判りませんが、この年は蒙古襲来の一回目(文永の役)なので、元軍の東征に備えたか…?

砂利敷きの馴れない林道をグングン登ると…

行き止まりが広くなり、国の史跡だからか、仮設トイレがありました その奥が城址です

尾根の先端に造られた城ですが、搦め手?虎口からは意外にも独立峰みたいに盛り上がっています

振り返って見下ろすと、愛車のミドシップ2シーターがあんなに小さく見えます

主郭と思われる壇上は400坪ほどの広さで、2段に区切られていました

周囲の土塁痕も良好に残り…

外側の斜面は急角度で谷底へと落ちています

その谷底が視認できないほど、どこまでも急斜面ですね この樹木がなく、転んだら…(*_*;
この城で戦いの記録があるのは室町期の二回のみで、一回目は南北朝騒乱の貞和2年(1346)、南朝の伊勢国司として下向して来た北畠顕能(顕家の弟で伊勢北畠氏初代)に攻められ、一旦落城しています。
しかし、戦況が北朝優位となって来た文和年間には放棄され、再び長野氏の手に戻ります。

主郭の東側下には帯曲輪が巻いています 下界から見た鉄塔がコレですね

曲輪は広く整地されていて、想定される敵の攻め口がこちら側なのが判ります

ここに簡単な案内板があります 簡単な理由は次回以降で…

東側の眺望 領地のほぼ全てが見渡せますが…遠いですよね(^^; 籠るに特化した城です
二回目の戦いは延文5年(1360)のこと、伊勢守護の仁木義長が政敵の細川清氏、畠山国清らの讒言に追い詰められ、南朝側に降って長野氏と共に長野城に籠りました。
将軍:義詮はすぐに追討軍を送って包囲しますが、とうてい大軍を動かせる地形になく、なんら有効な打撃を加える事が出来ずに2年の歳月が過ぎ、ついに義長は“赦される”形で幕府軍を撤退させました。

帯曲輪の下、北の方角にも空堀と土塁が有り…

武者溜まりの郭が造られています

その先は堀切と土橋になっているので、たぶん大手口だったのでしょうね

この辺りも山肌の傾斜はコレです。 とても草鞋履きで攻め登るのは無理ですね~!
その後の戦国時代、長野氏と北畠氏の抗争は長く続きますが、長野城を舞台にした戦いは無く、永禄12年(1569)織田信長の侵攻→長野家乗っ取りに遭うと、養子に入った信包は本拠地を安濃津に定めた為、長野城は廃城になりました。
【曽我兄弟仇討の真実】
赤穂浪士の討ち入りと鍵屋の辻の荒木又右エ門に並んで、“日本三大仇討ち”と言われている曽我兄弟の仇討ち。
権力を嵩に着て父親を騙し討ちにした極悪非道の工藤祐経と、幼少から苦労しながらも見事に仇討ちを果たした兄弟… という構図が思い浮かびますが、少し調べて見るとどうも様相は違う様です。

工藤祐経と曽我兄弟、実は同族の親戚なんですよね。
そもそもの遺恨の発端は、祐経の祖父で兄弟には高祖父にあたる工藤祐隆に問題があった様です。
祐隆は西伊豆狩野の国人領主で、事業家として優秀だった祐隆は、優れた馬を産出する狩野を四男の茂次に任せると東伊豆に進出し、伊東や宇佐美、河津などの農地を拓いて伊豆で最大の勢力にのし上がりました。
しかし後継者には恵まれず、嫡男:祐家をはじめ男子がみな早世してしまい、なんと後妻の連れ子だった娘に産ませた祐継を後継に指名して世を去ります。
これに反発したのが嫡流ながら分家にされた嫡男:祐家の子の祐親でしたが、祐継が病弱で若くして病没すると、その子の祐経の後見人となって実権を手に入れます。
祐親の娘を娶っていた祐経でしたが、上洛した隙に祐親に領地を横領された上、妻も連れ戻され別家へと嫁がされてしまいました。
一度に領地も妻も失った祐経は訴訟を起こすも、祐親の賄賂攻勢に阻まれて上手く運ばず、次第に遺恨を募らせて祐親の命を狙う様になりました。
ある日、祐経の放った刺客は祐親を待ち伏せし、矢を放ちますが、矢は祐親をかすめて嫡男の河津祐泰に当たり、祐泰は落命しました。
祐泰には幼い男子が二人あり、その後母の再嫁先の曽我祐信の元で育ちますが、祐経を不倶戴天の敵と洗脳された二人は“曽我兄弟”として祐経を討つ事になるのです。

昔から歌舞伎や映画などに取り上げられる曽我兄弟 苦労しながら成長し、本懐を遂げるストーリーは涙を誘うのですが…

戯曲なのに実名で悪役に仕立てられる方は堪ったものではありません(*_*;
以上が仇討ちに至るあらましですが、単なる同族間の主導権争いですよね?
しかも兄弟の側の祖父:祐親の方がやってる事は悪質で、少なくとも祐経は仇と狙う曽我時致(弟)に面会して、『もう同族で争うのはやめよう』と太刀を与えて諭した形跡があります。
しかし、この内輪揉めに権力者が絡むと、事はややこしくなります。
建久4年(1193)、頼朝主催の富士での巻狩に参加した祐経の寝所に忍び込んだ曽我兄弟は、酔って遊女と就寝中の祐経を殺害し晴れて本懐を遂げます。
しかし、部外者の兄弟が幕府幹部の寝所の場所が判り、なぜ容易に入れたのか…不自然ですよね?
しかも次の兄弟の行動ですが、なんと頼朝の寝所に侵入して、兄の祐成は警護の仁田忠常に斬り伏せられ、弟の時致は捕縛されてしまいました。
頼朝と祐経を快く思わない者が、仇討ちに見せかけて仕組んだテロの匂いがしますね…。
翌朝、頼朝の聴取を受けた時致はあくまでも仇討ちを主張し、頼朝も助命を考えたと言いますが、曽我兄弟が伊東祐親の直系の孫であると知らされると、一転して斬首を命じます。
頼朝が伊豆の蛭が小島で流浪の日々を送っていた頃、地侍の娘と恋仲になり男子をもうけました。
頼朝にとって初めての子でしかも長男でしたが、上洛していて後でそれを知った娘の父親は、平清盛に睨まれる事を怖れるあまり、娘から子を取り上げると池に投げ込んで殺してしまいました。
その父親こそが伊東祐親だったのです。
つづく