熊野古道歩きも佳境に入って来ました。
今回歩いたのは梅ケ谷駅からツヅラト峠を越えて紀伊長島までの約12kmですが、ここは全行程の中でも幾つかの意味を持った、前半のハイライト的な行程になります。
まずは周囲の景色が内陸部から海浜へと舞台が変わるという事ですが、これは伊勢国から紀伊国への越境(あまり実感するものではありませんが…)になります。
そして実は、世界遺産~『紀伊山地の霊場と参詣道』に登録されている『熊野古道:伊勢路』はこのツヅラト峠から始まるんです。
昔の巡礼者の目線に立つと、浮世の続きだった伊勢の内陸を延々と歩いて、ツヅラト峠の尾根に立って見た補陀落の海(熊野灘)は、霊場の入り口に立った事を実感させたに違いない…と思うのです。

前回同様に梅ケ谷駅そばの八柱神社にクルマを置いて歩き始めます。
熊野古道はここで二つに分かれ、ツヅラト峠を経る古来のルートと、峻険な峠道を避けて江戸初期に開発された荷坂峠のルート(現:国道42とほぼ同一)がありますが、ここは迷わず
ツヅラト峠に向かいます。

国道42号から右に折れ県道758号に進路を取ります
【下里】
下里は鄙びた山間の集落ですが、大内山川の水利が良くて、豊かな田園風景が眼を楽しませてくれます。
山里にありがちな耕作放棄地も殆どなく、田畑は良く手入れされています。
獣害対策はご多聞に漏れず施工されていますが、政策や民意が農家に逆風な中、頑張って日本人のアイデンティティを守っておられる気がします。

水の豊富な下里は、豊かな農村に見えます

路傍の庚申様もリッチな建屋に これならオオカミが来ても飛ばされません

上流へと歩き続ける事30分、山が間近に迫って来ると…

トイレ付きの小公園『定坂公園』がありました 峠に入る前の用足し場です

公園の向かいにあった花山法皇の古碑 花山帝は平安中期の65代天皇ですが、次の一条帝を推す外祖父:藤原兼家の策謀で僅か2年で退位しました。 退位後は出家して法皇になり、33ヶ所の観音霊場を巡礼した(西国33ヶ所巡礼の元になった)と言いますから、その時に此処まで脚を延ばしたのでしょうね。
【栃古】
さらに上流の栃古に来ると、街道は北の紀伊山地奥部へ向かう大内山川を離れて、支流の小川沿いに南へ向かいます。

古道は支流に沿った林道へと入って行きます

クルマが入れる林道ですが、脇には古道の痕跡が付いて来ます

林道はやがて分岐し、古道は右へと折れて行きます

あれ? これは重機で造ったばかりの新しい林道では? と思いましたが…

古道は右下について来ています どうせなら、これを整備してほしい
ここから先はもうまとまった耕作地も無く、奥には民家も無い様で、林道があるのみですが、林道と離合を繰り返しながら旧街道を進んで行きます。

林道はやがて舗装路へと合流します

杉も良く手入れされており、活きた森林の道ですが…

古道も並走して行きます これはイノシシ除けの石垣か?

林道はまた分岐し、今度は左に入ります

そしてここで林道ともお別れ いよいよ熊野古道オリジナルの旧道です
【ツヅラト峠】
林道から最後の分岐をし、峠道に入って行きます。
この地点の標高は226mで、海辺の伊勢から65km歩いてジワジワ登って来たのですが、そんなに高くはないですね。
ツヅラト峠は363mですから、比高差は137m。 登りはそんなに気合を入れる程の峠道でもありません。

登り口には杖も置いて貰っていますが、急坂が待ち受けているのか?

登り始めは整備された歩きやすい山道でしたが…

中盤以降は斜度も上がり、木の根が露出して完全な登山道です こりゃ馬は無理だったでしょうね(*_*;
峠に着きました。
薄曇りの天候なので、期待していた色合いではありませんが、熊野灘の海が遠望できます。
あの海沿いを南下した熊野の地には三山が祀られ、南の大海原の彼方には補陀落の極楽浄土がある… 千~四百年の昔にこの場所に立った巡礼者達が、思わず手を合わせた風景が目の前にあります。

峠には立派な東屋があり、雷雨を凌げます

尾根を少し西に登ると“見晴らし台”と呼ばれる拓けた場所が

此処からは紀伊長島と念願の熊野灘が一望できます

ズームして見ると、大島や魚まちも良く見えます

少し視線を落としてみると… ひゃ~! 350m一気に落ちていますね
昼食を取り、今度は峠から紀伊長島に向けて下りて行きます。
標高差350mを一気に下りて行きますから、道は自ずとジグザグに山肌を這っています。
ツヅラトを漢字に直すと“九十九折”なんだそうです。
これはまず馬での旅は寄せ付けない道ですから、紀州藩主:徳川頼宜が『別の場所に新道を造れ』と命じたのも頷けます。

いよいよ峠の下りですが、最初から急な坂で始まります

急な九十九折れで、どんどん降りて行きます 危ないからここは慎重に…

少し斜度が緩やかになると、蜀の桟道みたいな断崖の道です ここを歩くには時刻と天候を選ばないと…

積んである石垣は、多少は修復しているものの、江戸時代のモノみたいです
歩きながら、巡礼者の困難な旅を想うと、ふと永井龍雲の『お遍路』を口ずさんでいたりします(^^;

紀州はただでさえ雨量の多い場所です。 山肌の窪みを流れる水の量は半端じゃないでしょうから、街道の維持は大変だった事でしょうね。

幾つかあった山の神の祠 安全を神に頼まなければならない峠ですよ、これは

道沿いにあった炭焼き窯の跡 古道が廃れた時期、道の有る山中は格好の炭焼き場だったのでしょう

斜度が平坦に近くなると、石畳が現れます

【志子奥】
峠を下り切った人里は志子奥という集落です。
たぶんこの地域の人達が、昔も今も峠の古道を維持管理してくれているんだと思いますが、奥の方は民家も農地も廃れていて、時代を感じさせます。
石畳は近年に地元の人達が発掘して、石を積んで復元したのだそうです。

古道の峠道は終わり、また林道になりました

昔は谷間のかなり奥まで人の生活があり、これは棚田の跡の様です 植えられた木の大きさから、30年以上前に放棄された様ですね

人里らしい風景の場所に出ましたが、水田は近年に放棄されたものの様です

紀伊長島側からの登り口になる広場 トイレと駐車場があります

志子奥の集落から振り返るツヅラト峠の遠景
【紀伊長島】
紀伊長島市街へと入って来ました。
この地域ではまとまった平地が有り、水田も営まれていますが、耕作放棄地が目立ちます。 やっぱり塩分が出るのかな?

あまり見るモノも無い道が30分ほど続きます 前方の橋は高速道路

見えて来た橋は長島橋で、今回の古道歩きの終点です 次回は橋を渡る所から始まります

海が近いので港に来てみました 今日は凪ですね 右手が漁港になります

木材の産地を物語るオブジェがたくさんありました チェンソーの一刀彫りか?

紀伊長島駅から汽車で帰宅します
30年くらい前には、みかん山が広がっていて、みかんの産地でしたが、最近はあまり目にしませんね。
一番の産業は林業と漁業の様で、森林は枝打ちが行き届いていて、漁港には船の出入りがあって、周辺は賑わってる様ですが、そこは次回の訪問になります。
ここまで歩きました!

つづく