3日目の最後は昨日、時間が無くてスルーして来た今治城を訪ねます。
日本100名城 №79 今治城 愛媛県 登城日:2018.12.19

別名 吹上城、吹揚城
城郭構造 輪郭式平城(海城)
天守構造 諸説あり(非現存・慶長13年(1608年)5重層塔型)
模擬天守(望楼型5重6階RC造:1980年築)あり
築城主 藤堂高虎
築城年 慶長7年(1602年)
主な城主 藤堂氏、松平(久松)氏
廃城年 明治6年(1873年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 愛媛県史跡
再建造物 模擬天守、鉄御門、多聞櫓5棟、石垣、東隅櫓、山里櫓
所在地 愛媛県今治市通町
今治城は築城名手の藤堂高虎の手によるもので、その後の天下普請ラッシュの築城を高虎が主導した事、またそれに参加した大名達の多くが自前の築城をする時にベンチマークした事で、江戸期の日本の城の“雛型”とも言える城なんです。

東側の堀端にある駐車場を目指して市街地を抜けると、まず高石垣が眼に飛び込んで来ます 『あっ、高虎の石垣だ!』

左:安濃津城、右:伊賀上野城の石垣 ホント、同じ石垣ですよね 三重県民には嬉しい瞬間です
秀吉時代の高虎は、同じ伊予でも宇和島8万石の大名として封されていましたが、関ヶ原後に新たに伊予東部の12万石が加増されたので、豊後水道に面した宇和島に替わり、瀬戸内に面しより地勢の良い今治に本拠地を移し、築城を始めました。
今治のある越智郡は、伊予国府もあった伊予の中心とも言える場所で、前任者の小川祐忠やその前の福島正則は5km南の山城“国府山城”を居城にしていましたが、高虎は伊予平野のど真ん中で蒼社川河口の今治の平坦地を敢えて選んだのです。

入場パンフより この範囲が城址として残っています あれ?天守が無いぞ?

廃城前の古写真 左側の面で、手前が二ノ丸、奥の一段高い部分が本丸ですね
高虎が企図した新城は“壮大な海城”です。
おそらく秀吉時代に島津征伐に兵員や物資の輸送を担当した事や、数々の寺社建造に熊野の木材を回航して水運の重要性を理解していたベースがあり、朝鮮出兵には水軍を率いて参戦し、水軍の機動性の高さを身をもって体感した事から、『これからの城は海城だ!』の念が強くあり、その後宇和島を預かって、宇和海を眺めながら構想を温めていたのではないか…と推察します。

正保絵図より 瀬戸内海に向け城内に港を持つ広大な海城で、外堀の範囲は1km四方ありました

クルマを停めて、大手の鉄御門から入って行きます

門前にある舟入 参勤時にはここで乗船し、沖の御座船まで船で行ったか?
高虎の城の真骨頂はといえば、まず高石垣と多聞櫓による防御力の高さが挙げられます。
当時の土木技術からして、高石垣を積むには土台となる山が必要で、山肌を高い切岸にして石垣を高く積み上げるのですが、海城(平城)の難点はこの土台の山がありません。
それに当時の今治は吹き上がった海砂が砂丘を造るほどの砂分の多い堆積層で、城の地盤としては最悪な部類です。

鉄御門は多聞で囲まれた枡形門の奔りで、土橋の端には高麗門がありました 2009年の復元で、一番新しい建物です

鉄御門の名は下層の全面に鉄板が貼られていた事に由来します

石垣の石に白い石が混ざっていますが、これは“結晶質石灰岩”で、いわゆる大理石ですね 均等に散らして混ぜてるという事は、少し柔らかめの石でクッション効果を狙ったか?
では、これらの悪条件を高虎はいかに克服したのでしょうか?
まず石垣の下面に見える“犬走り”ですが、これは何の為に有るかと言えば、メインは石垣の土台補強です。
たぶん最下層には松の丸太が敷いてあり、その上に石垣でブロックを造って地盤に面で荷重が掛かる、現代工法で言う“捨てコン”ですね。
さらに犬走りは石垣を登り来る敵を蹴落とした時に致命傷となる事や、石垣のメンテナンスが容易…などの副次効果も加わります。

郭内に入りました ここは三ノ丸で、馬出し機能の広場や蔵があった場所ですね

そして二ノ丸は御殿があった場所ですが、なんか普通の民家(?)が建っていたりします(^^;

二ノ丸にある高虎像 大天守をバックに素晴らしい構図なんですが、天守がねぇ…

しかし甲冑姿でなく平服の高虎像は、今治の人達が為政者としての高虎を評価してるという事で、好感が持てますね
次に平城で高さを稼ぐ手段ですが、“正保絵図”を見ると気付く事があります。
他の城に比べて断然堀が広いですよね?
これには、今後の“鉄砲の戦い”を想定した縄張り…という面もありますが、石垣の内側に積み上げる土砂の採取の目的が大きいのではないでしょうか?
今治城の高石垣が成り立つ条件はこれで解明(?)できましたが、では天守はどうでしょうか?

本丸跡に鎮座する吹揚神社は近隣の神社4社を集めた県社で、廃城後の明治8年創建です

いちおう、天守に登って周囲を眺望しますが… しかしこれは模擬にしてもちょっと酷いモノですね(*_*;

内部は展示室ですが、江戸時代の(松平家の)甲冑などが展示されています


今治城の天守については諸説があり、地元では『本丸中央部にあったが、後に高虎が丹波亀山城の天下普請を担当した際に移築した』説を採っている様ですが、肝心の天守台は無く、地中から遺構も発見されていないそうで、それが“無かった説”になっている様です。
この辺の事を係員に質問すると何とも歯切れが悪く、納得出来る回答はありませんでした。
しかし、何処でも5層の大天守を建てるとなると、相当に大規模な基礎工事(天守台)が必要で、地盤の軟弱な今治なら尚更です。
それに、移築説を採る割に、復興の模擬天守が亀山城の天守とは似ても似つかないのはなんとも致命的ですよね(^^;

最上階からの眺望 北側は来島海峡が間近に見えます 下の櫓は山里櫓ですね
ん? あのマイカーが停まってる民家は何なん?

東には瀬戸内の燧灘が広がります(カチカチ!) 随分向こうまで埋め立てされてますね

南側は四国内陸部が見渡せます 眼下は吹揚神社
百歩譲って、高虎が移築したとすれば、今治城の竣工は慶長12年(1607)、亀山城の竣工が慶長15年(1610年)ですから、地盤に対する不安から今治城の天守築造を諦めた高虎が、余った天守用の用材を亀山に運んで組み立てた…と解釈するのが精いっぱいかな。
もうひとつ、高虎の城の真骨頂が見られるのが、鉄御門の枡形です。
門を石垣で囲って多聞櫓を建て、左右どちらかの一面を渡り櫓門として、外側には高麗門を配す。
今となっては見慣れた江戸期の城門の典型的なスタイルですが、この構造を考案し初めて具現化したのが高虎の今治城鉄御門なのです。
その後この城門の形式は天下普請を介して諸大名にも急速に広まり、門の主流になりました。

山里櫓脇の土塀 控え柱の腐食を防ぐ金属の笠や地中に入る石柱、繫ぎの鉄帯など、構造が呆れるほど忠実に再現されています これは今治城内一の見どころかも

慶長5年(1601)に今治に入った高虎でしたが、今治城の竣工も間もない慶長13年(1608)には伊勢国安濃津へ移封となってしまいます。
幸い今治城と越智2万石は藤堂家の飛び地として残され、養子(丹羽長秀の三男)の藤堂高吉が城代で残りますが、僅か8年の短い在城でした。
その高吉も寛永12年(1635)には伊賀国名張に移封になり、替わっては伊勢長島から松平(久松)定房が入って来ます。
この定房は実は隣の伊予松山藩主:松平定行の弟であり、久松松平家の分家という位置付けで、僅か3万石での今治城主は明らかにミスマッチであり、定房にとっても今治城にとっても不幸な事でした。

山里櫓には搦手門があって、木の太鼓橋(本当は)があて内堀を渡れます

ここにも舟入がありますね 引き潮で堀の水がだいぶ減っています

この松平家はその後転封もなく明治維新まで続くのですが、身に余る今治城は藩財政を圧迫し続け、廃城時には城の荒廃も酷かった様です。
大藩の居城でもない今治城は、明治2年の廃城令とともに全ての建物が撤去され、内堀に囲まれた主郭のみが本丸跡に建てられた吹揚神社の境内として残りましたが、荒廃も酷く、石垣の石も多く失われたそうです。
その今治城が城址として整備されだしたのは県の史跡に指定された昭和28年以降の事で、昭和55年には模擬天守が建ちます。
この天守は考証が曖昧なまま観光優先で建てられた感が強く、違和感の元になって景観を損ねていますが、その後に復元される櫓や城門は資料に忠実に木造復元されており、見る角度によっては往時の姿が戻りつつあります。

内堀の水はどうやらこのトンネルで海とつながってる様ですね

今治市としては本当は天守も木造復元したいのが本音でしょうが、それには立派な神社の移転が前提になってしまいます。
それよりも辛いのは、神社をどかしても天守の基礎は出て来ない事、つまりは“もともと無かった”説を裏付ける事になってしまわないか?…という事ですね。
ともあれ、天守は無くても(あるけど)藤堂高虎の渾身の大規模な高石垣が現存している事、これだけでも百名城に相応しい、十分に価値のある城址なんですけどね。

この後は讃岐の丸亀に移動して宿泊します。
つづく