松山城には現存天守があり、高石垣に守られた本丸の上には数々の櫓や門が建ち並んでいて、日本でも屈指の往時の姿を残した城です。
少なくとも四国ではナンバーワンの城で、次に国宝になる城があるとすれば、おそらく松山城を置いて無いでしょう。
そんな松山城に敬意を表して、堂々と正面の大手口から攻略しようと、二ノ丸下の駐車場を目指しました。
日本100名城 №81 伊予松山城 愛媛県 登城日:2018.12.19

別名 金亀城、勝山城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 連立式層塔型3重3階地下1階(1852年建替)
築城主 加藤嘉明
築城年 慶長7年(1602年)着手
主な改修者 松平勝善
主な城主 加藤氏、蒲生氏、松平(久松)氏
廃城年 明治6年(1873)
遺構 天守、櫓、門、塀、井戸、石垣、土塁、堀
指定文化財
・重要文化財(大天守、野原櫓など櫓6棟、門7棟、塀7棟)
・国の史跡
再建造物 小天守、北隅櫓など多数
所在地 愛媛県松山市丸之内1

松山城復元CG 御殿下の堀跡が駐車場で黒門から入り、山上の本丸大手門に向かうのが正規のルート(と思っていました)

二ノ丸と本丸遠景
ところが、行ってみると駐車場は閉鎖されています…。
『何たること…』と、気を取り直して三ノ丸内にある美術館の駐車場に入り、『二ノ丸駐車場がダメなんで、こっちに停めさせて』と頼み込みます。
ところが此処の係のオジサン、『ここは美術館利用者以外はダメです!』の一点張りで埒があきません。
『じゃぁ一体何処に停めればいいの?』と尋ねると、『お城に登る人は普通東側のロープウェイで上がるんです。麓にはいっぱいコインパーキングがありますから』という返事でした。
『松山市は個人の登城のし方を勝手に決めるんか!』と、かなり気分を害しながらも、言われた通りに東側に廻って見ます。

愛媛県庁の前を通ってロープウェイ駅に向かいます 植栽が柑橘なのが愛媛らしいですね

登城路選択の位置関係
すると、県庁通り(R11)から左に折れる“ロープウェイ街”が綺麗に整備され、小洒落た店舗が並んでいます。そしてロープウェイ駅の周辺にはP看板がイッパイありました。
松山市は松山城観光のパターンとして、民間パーキングにクルマを停めて、ロープウェイで一気に山上へ登り、本丸だけ観たら麓に戻り、お土産や食事をして帰ってもらう…という前提で観光開発をしている様ですね。
ひとつのパーキングにクルマを入れ、徒歩でロープウェイ駅に向かいますが、城址公園の看板を見ると、東雲神社の参道から徒歩で登れそうなので、意地でも歩いて登ります(^^;

ロープウェイ駅の傍にあった加藤嘉明の騎馬像 伊予松山城の築城者ながら全国的な知名度はイマイチですが、いつでも沈着冷静な判断ができる『沈勇の士』として、秀吉、家康に重用されました。

東雲神社からの登城路 地形図から見て本丸の膨大な資材引揚げはこの方面から…と見ていましたが、果たして広くなだらかな道があります

ロープウェイの終点付近からは本丸はもう目の前 櫓は巽櫓で、1986年の復元
前置きが長くなってしまいましたが、松山城のある勝山には室町時代から城砦が設けられ、湯築城の支城もあったと言われます。
それを本格的な平山城に改変したのは加藤嘉明でした。
嘉明は松山の南西5kmにある正木城城主(10万石)でしたが、関ヶ原後に20万石に加増されたのを機に、新城の築城を敢行しました。

本丸高石垣は15mくらいか? 斜面の上にこの石垣が聳えると、攻めるには大変です 櫓は隠門続櫓で、創建当時の現存櫓

高石垣を時計回りに回り込んで進みます 前の櫓台は大手櫓門の台で、本当はここに登って来る筈でした

大手門を左に見て回り込むと本丸内への登り坂 前に立ちはだかるのは太鼓櫓で、1973年の再建

太鼓櫓の下を折り返す様に坂は続き、戸無門で郭内へと入ります

戸無門の内側 形式は高麗門ですが、扉は最初から付けられなかったそうです
加藤嘉明は長浜以来の秀吉子飼いの臣で、賤ケ岳七本槍の一人であり、豊臣末期には武断派七将の一人でもありました。
つまり同姓の加藤清正とは同じグループだったのですが、現代の知名度はといえば、松潤と相葉クン以上に差がありますね。
清正との違いは何なのかと考えるのですが、結局は“豊臣愛”の深さではないかと思うのです。
子供の頃から苦労人の嘉明は実利主義で、藤堂高虎に近い思考・行動で、徳川家臣として受け入れられて行った為に、庶民の情感に訴えるものが少ない武将なのかも知れませんね。

戸無門の内側は小さな枡形(馬出し)になっていて、筒井門から郭内に入ります この筒井門には奥に隠門があって…

内側から見るとこんな感じで、筒井門に取り付いた敵を左手の隠門から挟撃できる仕組みです

筒井門の内側も実は枡形で、この太鼓門を入ってやっと本丸郭内になります

太鼓門の内側 雁木を登って鉄砲狭間から覗いて見ると…

筒井門の正面ですね 狭い登城路を櫓の下を折り返しながら登らせ、二重の枡形で殲滅する… 姫路城にも劣らない、攻城戦を知る者の超実戦的な縄張りですね
加藤嘉明の松山城は、標高132mの勝山山頂を削平して、高石垣に囲まれた独立性の高い本丸を形成しています。
本丸の北部には本壇と呼ばれる一段高い本丸曲輪があり、大天守と3つの櫓を連結させた、連立式天守が聳えて、威容を誇っています。
山頂部とは別に勝山の南西麓には、これも高石垣に囲まれた二ノ丸があり、ここは藩主の常御殿でした。
そしてその下には重臣屋敷となる広大な三ノ丸が広がり、周囲を水堀が囲っています。
城域としてはほぼそれだけですが、20万石の石高から見れば妥当な広さですね。
ただ本丸の凝った構造や城下からの見え方には工夫がなされていて、財源を集中的に投入した事が窺えます。
おそらく、同時期に築造されていた池田輝政の姫路城を相当に意識していたのではないでしょうか?

本丸内は南北に細長い平場になっていて、奥に連立天守の本壇があります ここは居住の場ではなく、戦時の武者溜まりだった事でしょうね

西側高石垣 中間の櫓の数は少なめですが、石垣を絶妙に折り曲げて、どの面にも横矢が掛かります 櫓は馬具櫓で、1958年再建で城内唯一の鉄筋コンクリート造です

乾門周辺 多くが1982年の再建ですが、手前の土塀は現存です 石落としの多さにこだわりを感じます

東側の高石垣もペキペキと折り曲げていますね 上には東側同様の土塀が巡っていた事でしょう

そして天守の壇 大天守が5重のままだったら、壮観でしょうね。
そんな事を想いながら、見学の脚は天守へと向かいます。
ところが…。

なんと…!

そういえば、こんな長柄槍の足軽がたくさん歩いてるわ…
念のため特別に入れないか窓口に聞くと、『1年のうち今日だけなんですけど、ツイてないですね』。
もう気分は完全にコレですね(*_*;
1/365の確率、年に一度きりの休館日に登城してしまうとは、今回の松山城は悉くツキに見放された…と思うしかありませんね。
松山城が完成し、大坂の陣でも活躍して着々と地保を固める加藤嘉明でしたが、寛永4年(1627)思わぬ事で奥州会津への転封を言い渡されます。
会津藩主:蒲生忠郷の死後の騒動で蒲生氏が減転封する事になった為、嘉明の伊予松山藩との領地の交換を打診されたのです。
それにより、嘉明の石高は倍の40万石へと加増されました。

仕方ないから紫竹門から入って家を閉め出された猫みたいに、本壇の周りをウロウロします

右から小天守、南隅櫓、北隅櫓 ホンモノ感満点ですが、この3棟は二度焼失して再建されてますから、石垣も積み直されていますね

乾門は西側の搦め手を守る門 急坂で登って来るので、大軍での一気攻めは無理ですが、内枡形になっています

野原櫓 城内最古の現存建物で、望楼は一階の梁が支える珍しい構造です

北側からは瀬戸内海が見渡せます 古来この周辺は“熟田津”と呼ばれた干満の大きな良港でした
『熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな』 額田王が万葉集に歌った新羅遠征軍の寄港地は此処だったのですね
替わって移って来た蒲生忠知は24万石で松山藩を治め、松山城二ノ丸の整備などを進めましたが、7年後の寛永11年、江戸参勤の途上で病没してしまい、蒲生家は改易となりました。
蒲生氏の後には伊勢桑名11万石から松平(久松)定行が15万石で入って来ます。
定行は4年後の寛永16年(1639)に何を思ったか、5層6階の威容を誇った大天守を3層4階に縮小改築してしまいます。
その理由は謎なんですが、『幕府への遠慮』説が有力な様です。 久松家は親藩といっても於大の方が再婚後の子:久松定勝の家ですから、越前家などと比べると肩身が狭かったのかも知れませんね。
ともかく、五層天守が建つ松山城が大名の誰もが羨む立派な城に見えてた事には違いありませんから、惜しい事です。

大手門から出て、次の目的地:二の丸御殿に下りて行きます

実はこのルートで松山城名物の“登り石垣”を見たかったのですが、残念ながら見えません
二の丸御殿の庭園で見られる様なので、まぁイイか…。

二の丸御殿と門が見えて来ましたが…この門は不明門で、入り口は南側の長屋門みたいです

欅門の脇に高~い大迫力の櫓台がありましたが、この上には櫓は無かった様ですね
その後の松山藩は、この久松家が代々続いて明治を迎えます。
天明4年(1784)、天守を含む本壇の建物は落雷により焼失してしまい、財政難の中で再建は見送られていましたが、幕末の安政元年(1854)には全て再建されました。
その時の天守が現存する訳ですが、維新後に木造復元された物を除けば最新の天守になります。
昭和初年に松山城は放火され、本壇の小天守や隅櫓などは焼け落ちてしまいますが、懸命の消火で大天守だけは類焼を免れました。
戦後の昭和43年、焼け落ちた櫓群も木造で復元され、現在の姿となっています。


次は今治に向かいます
つづく