福山城を後にして国道2号線を西進し、尾道からは『しまなみ海道』に入り四国に向かいます。
ここは“本州四国連絡橋”の3ルートのうちいちばん西の“尾道~今治ルート”にあたり、1999年に開通しました。

新尾道大橋で向島へ渡ります

瀬戸内では大きな島が密集する“芸予諸島”を効率よく繋いだこのルートは、吊り橋のスパン長が世界一の明石海峡大橋や、鉄道併用の大型の橋が連続する瀬戸大橋ほどのスケール感はありませんが、交通量は少なくてノンビリ走れ、車窓を過ぎてゆく津々浦々では長閑な漁村の暮らしぶりが見られて、観光には一番お奨めのルートです。

四国に渡るとそこは今治市。今治城も百名城のひとつですが、時刻も押してるので明日あらためて訪ねるとして、今日は宿舎の道後温泉に直行します。

日本100名城 №80 湯築城 愛媛県 登城日:2018.12.19

別名 湯月城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 河野通盛
築城年 建武2年(1335年)頃
主な城主 河野氏、小早川氏、福島氏
廃城年 天正15年(1587年)
遺構 土塁、水堀、郭
指定文化財 国の史跡
再建造物 武家屋敷
所在地 愛媛県松山市道後公園
湯築城は室町時代から戦国末期までの河野水軍の居城だった城です。
河野氏は古代から伊予国に根を張った越智氏の支族と言われ、風早郡河野郷(現:松山市河野)を地盤とする豪族でした。
平安末期の文治元年(1185)、源平合戦において23代目当主の河野通信は、兵船を多数率いて源氏側に参陣し、讃岐の屋島で源義経軍に合流すると“壇ノ浦の戦い”ではめざましい働きをします。
その功で通信は鎌倉幕府御家人に任じられ、同時に近郷の御家人を統括する、守護職に次ぐ権限を与えられました。

翌朝早くにチェックアウト 車はホテルに置いたまま徒歩で湯築城へ向かいます

早朝の本館横を通り過ぎて行きます お湯の質は評判良いと聞きましたが…割と普通なレベルに感じました

振り向いてもう一枚 年明けから改修工事で、一部しか利用できない様ですね

そして前を向くと…もう目の前に湯築城址です

後には北条時政の娘も娶った通信でしたが、承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽上皇に加担したため、一族は処断されて領地も没収されてしまい、唯一幕府側に付いた通久(母は北条時政の娘)にのみ僅かに地頭職が許され、河野氏は家名は残りました。
*この時に出家していた通久の兄:通広も助命され、後に通秀を設けますが、この通秀も若年で出家し、後に時宗を開いた一遍上人になるのです。
細々と家名を伝えていた河野氏でしたが、弘安4年(1281)の弘安の役(元寇)に水軍を率いて出陣した26代目当主の通有は、防塁の前の海上に兵船を並べて迎え撃ち、敵味方双方のド肝を抜きます。
次いで警戒して沖合で留まった元軍に対して夜襲を掛け、舟に乗り込んで暴れまくったのも河野水軍だったのです。

この働きは幕府にも大いに評価され、河野氏はほぼ通信の頃の旧領を回復するに至りました。

入口の公園案内図 二重堀の輪郭式だった様です

資料館の開館は9時なので、先に城址を歩きます 西側内堀の様子

そして外堀の様子 土塁はもっと高かったでしょうが、松山城築城時に使える資材はすべて運ばれたそうですから、ひょっとしたら石塁だったかも

西側の公園の正門は搦め手口だった様です

次の通盛の代になると、後醍醐天皇の挙兵『弘元の乱』が起こります。
一族や重臣の大半が天皇側を選択する中、当主の通盛だけは鎌倉幕府に従ったため、鎌倉で新田義貞に捕縛され出家させられてしまいました。
これで通盛の領地は没収され、替わって分家や家臣が個々に力を付ける…伊予における河野氏としての統治の枠組みは崩壊してしまいました。
しかし3年後の建武3年(1336)に足利尊氏が後醍醐帝に叛旗を翻すとこれに加わり、室町幕府では伊予国守護職を任じられました。
領地を回復し伊予に戻った通盛は本拠を河野郷から温泉郡湯築に移し、湯築城を築城しました。


内郭の小丘は比高差約25m 中腹に帯曲輪が走っていて二段構造になっています

登城路の木々には何かぶら下がっています 冬の七夕? 松山の風物詩なんでしょうね

この石造りの湯釜は奈良時代の建造だそうで、道後温泉の歴史の古さを教えてくれます 河野氏も湯築城築城前から別邸を置いていた場所だそうです

山上の曲輪に着きました 南北に細長い平場ですが、御殿はここではなかった様です

南北朝の争乱では、土佐の守護となった細川氏と協力して四国の南朝方の鎮圧を行なって行きますが、細川氏で内乱が起こると双方に加担する振りをしながら、細川氏の共倒れを画策します。
これに気付いた細川氏は逆に伊予に攻め込むと、激戦の末伊予を平定し、河野氏を伊予から追放してしまいます。
嫡子の通朝も討死にし、通盛は失意のうちに病死しました。
九州大宰府に逃れた29代通堯は南朝方に転向して懐良親王に臣従し、南朝の天皇から伊予守護に任じられると南朝勢力の加勢を得て伊予に侵攻し、伊予の奪還に成功します。
すると幕府管領:斯波氏に働きかけて北朝方に寝返り、幕府からも伊予守護の座を勝ち取りました。

山上の内郭南端は一段高くなった曲輪があります 物見曲輪か? 堀切は埋められています

山上には展望台が造ってあります

展望台から南側の景色 四国山地の山は雄大ですね

西側は松山市中心部 人口51万人の四国最大の都市です あの山は?

しかし、こうした変わり身の早さは与党の国人達の反発を招き、30代当主の通義は国内の反乱に追われる中26歳で病没します。
嗣子が無かった(室が懐妊中)ため、幕府の裁定で生まれた子が男子なら16歳で当主にする条件で、分家(予州家)で弟の通之が当主になり、16年後に約束通り通義の子:通久に家督は戻されるのですが、これに通之の子:通元らが猛反発し、河野氏は真っ二つに割れて家督争いを始めてしまいます。
双方の勢力には宗家に周防の大内氏が、予州家には土佐の細川氏が加勢し、折から応仁の乱が始まって幕府の方針(実力者)がコロコロ変わるのも手伝って、伊予での戦乱は長く続き、最後には宗家に家督が戻り予州家は没落する事で終息するですが、戦乱の時代に一つになれなかった事は河野氏にとって致命傷となりました。

東側の追手門周辺 グランドになっていますが、御殿があった場所だそうです

北側は道後温泉のホテル街 ほんと近い(^^;

東の追手門方向に降りて行きます

すぐに住宅街となる追手門周辺は公園整備でかなり改変されていました

戦国時代になると、体力が弱った伊予は周辺大名に狙われて侵攻が相次いで起こります。
芸予諸島をはじめ島嶼部はほぼ大内氏の支配下に堕ち、東予地域も長曾我部氏、三好氏に蚕食されて行きます。
西予の宇都宮氏、西園寺氏は豊後の大友氏の傘下になり、こうした中での河野氏による政権運営はもはや不可能で、多くを来島氏や平岡氏などの有能な重臣に委ねる事となります。
幸いだったのは、中国の新たな支配者となった毛利氏とは強い縁戚を結んでいた事で、戦国末期は毛利氏の意思・軍事支援でのみ滅亡を免れていた…と言っても過言ではないでしょう。

土塁の一部に展示トンネルがあり、積層状態が見られます

外郭は一族・重臣の屋敷地らしく、池を持つ屋敷が建っていた模様

一軒だけ土塀と門が復元されていました 一乗谷の武家屋敷とほぼ同じ造りです
騎馬のまま駆け抜けると、門の屋根で頭を打ちそう…

そうこうしてる間に9時になったので、資料館に入って見ます

そんな毛利氏も中央の強大な勢力:織田氏との対決が始まります。
河野氏も毛利水軍として参加していますが、第二次木津川口の戦いで敗退すると村上氏が寝返るなどして大打撃を蒙り、秀吉の時代になるとその傘下に組み込まれて行きました。
天正13年(1585)の四国征伐において、39代当主の河野通直は湯築城に籠るも小早川隆景の勧めで抗戦せず、開城降伏しましたが、戦後の仕置きでは大名として残される事はありませんでした。
『河野=毛利の内』、その後の利用価値を勘案した秀吉のシビアな判断だったのでしょうね。

屋敷の居間では何やら深刻な顔で会議中… また誰か裏切った?

木津川合戦の絵かな?

伊予の大半は小早川隆景に与えられ、通直も隆景に庇護され、家臣団も傘下に組み込まれましたが、通直は嗣子が無いまま病没したため、河野氏宗家は滅亡しました。
なお、現外務大臣の河野太郎さんの家はこの河野氏の末裔で、伊藤博文も河野通有を祖とするそうです。
河野氏の居なくなった湯築城は隆景の物となりましたが、隆景は本領の備後三原城に在城したまま支配しましたから、湯築城には隠居した通直が居住したものと思われます。
2年後の天正15年(1587)、隆景は筑前名島に移封になり、跡には福島正則が配されますが、正則は越智郡(今治市)の国分山城を改修して入ったため、湯築城は廃城となりました。
つづく