2日目の最後は広島県に入って福山城を訪ねます。
福山は江戸時代から備後(広島県東部)の中心都市で、人口は46万ほどですから、大分市や金沢市と同規模の大きな町です。

福山城天守から見る福山市街
前回訪れたのはもう40年も前の事ですが、人口も増えて落ち着いた“都会”に成長した感がありますね。
日本100名城 №71 福山城 広島県 登城日:2018.12.18

別名 久松城、葦陽城
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 複合式層塔型5重6階(1966年RC造復興)
築城主 水野勝成
築城年 1622年
主な改修者 阿部氏
主な城主 水野氏、松平氏、阿部氏
廃城年 1874年
遺構 櫓・門・鐘楼、石垣
指定文化財 重要文化財(伏見櫓、筋鉄御門)
再建造物 天守、月見櫓、御湯殿城郭構造
所在地 広島県福山市丸の内1丁目8
福山城は元和5年(1619)に芦田川河口近くの更地に新規築城が始まり、元和8年(1622)に竣工した新しい城です。
大坂の陣が終わり、元和令が施行された後の築城では、明石城や島原城、徳川大阪城などがありますが、これらは既存の城の増改築ですから、新規に築城された城としては“日本最後の城”と言えます。
元和5年に安芸、備後50万石を治めていた福島正則が武家諸法度違反で改易になると、広島には浅野家が紀伊和歌山(37万6千石)から42万6千石で加増転封にになり、残りの備後東部(10万石)には大和郡山(6万石)から徳川譜代の水野勝成が移され、新規築城が許可されました。
九州・中国に集中する外様雄藩への最前線を備後福山まで進めた…という事でしょうか。

明治6年 破却前の福山城 5重6階の大天守と3重櫓が7基ありました。
とても10万石の城とは思えない威容を感じます

福山城博物館の立体模型 本丸、二ノ丸、三ノ丸と一二三段に石垣が積まれた、王道的は縄張りですが、搦め手の小山あたりが地続きなのが気になります

正保絵図 やはり搦め手の防備は薄く、中途半端です。 そして豪壮な主郭部に対し外郭にはさしたる防備も無く、不自然な城下です。
これは、この城が小田原城の様に典型的な“見せる城”であった事を物語っていますね。
【徳川譜代の異端児だった 水野勝成】
三河以来の徳川家の譜代家臣といえば、実直でも融通の利かない、面白味のない堅物イメージがあります(多分に個人的な観念です(^^;…)が、初めて福山に配された水野勝成という人は、かなり違う人だったみたいです。
勝成は水野一族の宗家:水野忠重の長男として永禄7年(1564)に刈谷城で生まれました。
忠重の妹:於大は松平広忠に嫁いで家康を産んでいますから、勝成と家康は従弟です。

水野勝成画像 本多忠勝の後継的な武闘派の武将です 生まれるのが10年早かったら…
勝成は勝気な性質で、初陣の“高天神城攻め”で15歳ながら首級を挙げる活躍をすると、天目山の武田攻め、天正壬午の乱と立て続けに戦功を挙げ、武闘派として家康に認められて行きます。
しかし元気が過ぎて、小牧・長久手の戦いでは羽柴秀次の陣に斬り込んで活躍しますが、戦場での礼に反する先駆けを父に激しく叱責されました。
同年、蟹江城合戦に参戦した勝成は、またもや真っ先に乗り込んで、滝川一益の子:三九郎と大太刀回りを演じましたが、それを見ていた父の家臣が父:忠重に報告すると、その家臣を斬り殺した…と言います。
完全にブチ切れた忠重は、勝成を廃嫡勘当してしまいました。

城内散策です 城址の駐車場は無く、三ノ丸跡にある美術館の有料駐車場を利用します

二ノ丸は公園広場化されていて、何もありません

本丸高石垣もこうゆう積み方(谷積み)を見ると、新しい城なのが判りますね
行く充ての無くなった勝成は人知れず単身京に上り、南禅寺の山門に寝泊まりしながら“無頼の徒”と化しました。
翌天正13年、織田信雄に誘われ秀吉の配下となり、雑賀攻めに参加します。
次いで四国征伐には仙石秀久の下で参戦し、その働きから秀吉の直臣として700石の知行を貰っていますが、間もなく西国へと逃散してしまった様です。
天正15年からは九州の大名の元を渡り歩きます。
佐々成政に千石で仕官すると“肥後国人一揆”に活躍し、佐々家改易の後は黒田官兵衛の元に移りましたが、秀吉から『挨拶に来い!』と求められると、その途上でまた出奔しました。
翌年には小西行長に仕官し領内の反乱を鎮めると、加藤清正→立花宗茂と主を変えて行きます。
秀吉を袖にしてもなお、その大名達に重用された訳ですから、余程に魅力を持った武将だったのでしょうね。
しかし、彼らの手に余るほど扱い難い人間だったのも事実で、出奔を繰り返し、この後しばらくは虚無僧に姿を変え諸国を放浪したそうです。

伏見櫓は唯一の現存櫓(重文)で、伏見城からの移築です

近くからは二重に見えますが上に望楼を載せた三重櫓で、軒梁の付け方が特徴的な桃山様式の美しい櫓ですね

伏見櫓の東隣りで虎口を形成する筋鉄御門 これも伏見城の遺構です(復元)

さらに東側には懸造りの御湯殿と辰巳の月見櫓が並びます(いずれも復元)
これらも伏見城から移築されたもので、築城に際し将軍:秀忠からのプレゼントだったそうです
慶長4年(1599)、秀吉の死去で情勢が混沌として来ると、勝成は15年ぶりに家康の幕下に入りました。
この時、父:忠重とも和解を果たしていますが、忠重はその後に石田三成の誘いを断って暗殺されたので、勝成が三河刈谷3万石を相続しました。
翌年の関ヶ原の戦では大垣城に籠る西軍と対峙していましたが、島津義弘の軍が陽動作戦を仕掛ける中で、軍監の本多忠勝、井伊直政から『島津勢は六左衛門殿(勝成)でなければ手に合わないので…』と懇願され、出撃して追い払っています。
ここぞという時に、かつての猛将からも頼りにされる勝成でした。

筋鉄門から本丸に入って行きます

本丸御殿跡はここも広場になっています

ちょっと変わった櫓ですが、鐘櫓です 復元ですが鐘楼部分は現存で、市の文化財
本戦では前線への配置を希望するも、家康は敢えて大垣城の抑えに残しました。
戦後を見据えた家康の戦略ですが、前線の諸将が大幅加増される中で勝成への加増は無く(弟3人が各1万石で大名になった)、忸怩たる思いだったでしょうね。
大坂の陣の冬の陣では大きな出番は無く終わりますが、夏の陣では“大和口”の先鋒に指名され、いち早く奈良盆地を抑えます。
道明寺から大阪平野に入った勝成は南下して来た後藤又兵衛の軍と鉢合わせし、激戦の末にこれを壊滅させます。
次いで、真田信繁、毛利勝永、明石全登の軍が姿を現しますが、なにせ大軍の為、勝成は後続の伊達政宗に共に突撃する事を再三提案するも、大きな犠牲が伴う事を予見した政宗は承知せず、睨み合いのまま夜間に豊臣側が退却してしまいました。

本丸西側は毛利時代の神辺城を解体して、その資材で築城されたそうです

棗木御門跡 本丸の搦め手門でした 冠木門はイメージ復元で、手前の石垣上に渡櫓門がありました

月見櫓 廻り縁があるのは“着き見”櫓ゆえ?

御湯殿 瀬戸の夕暮れを見ながら湯に浸かり、冷えたビールで一杯! …しかし藩主の湯殿は御殿の中にありました 苦手な秀吉の遺構だから使われなかったか?
翌日の最後の戦いでは、家康本陣に突っ込む真田軍に対し後方に回り込んで挟撃を図ります。
これを機に四方から囲まれた真田軍は次第に劣勢となり壊滅してしまいます。
息つく間もなく、明石全登の軍が突入して来ると、押された越前兵が勝成の陣へと逃げ込む中、これを勝成が叱咤し、槍を取って立ちはだかったので越前兵も立ち直り、最後は明石軍を壊滅に追い込んで、大勢は決しました。
これらの活躍で、論功行賞では『戦功第二位』と評されましたが、褒賞は僅か3万石加増で大和郡山6万石でした。
20万石を期待していた勝成でしたが、豊臣が滅びた今、武闘派はもう評価しない世になっていたという事ですね。
さすがに気の毒に思った秀忠は、『私の世になったら…』と勝成を慰めたそうです。

天守は“福山城天守”ではなく“福山城博物館”と表記されています 真面目ですね(^^;
戦災で焼失した天守が外観復元されたのは昭和45年ですが、日本で10指に入る巨大な層塔型天守です

廻縁からは市街が一望できますが、福山駅はもう伏見櫓(本丸)ののすぐ傍ですね、こんなに近いとは…

地下階には子供達が描いた城の絵が展示してあり、なかなかの力作揃いです。 ふ~ん、子供の目には、こう見えるんだ(^-^;

なるほど…見えるかも
その裏約束が備後福山10万石への移封となるのですが、譜代筆頭の井伊家や四天王の他三家に対し明らかに下位なのは不満だったのでしょう。
勝成は城郭縮小の時勢にも拘わらず、明らかに身に余る巨城の新規築城を秀忠に認めさせています。
福山に移った後の勝成は内政に力を入れて、新田開発や新たな産業振興を次々に打ち出し、豊かな水野時代の福山藩では百姓一揆は一度も無かったそうです。
稀代の猛将というだけでなく、藩主としても優れた人だった様ですね。
水野家は勝成の後4代続きましたが、数えて5代:勝岑が早世すると嗣子がなく、改易になってしまいます。
福山藩領は天領になり、この機に再検地が行われましたが、水野時代の振興で15万石の石高が有ったそうです。
元禄13年(1700)には出羽山形から松平(奥平)忠雅が10万石で入りますが、これは再検地に基づく3割減の領地であり、以後の福山藩は典型的な貧乏藩になってしまいます。
松平家は1代10年で伊勢桑名へ去り、続いて下野宇都宮から入った阿部家は10代160年福山を治める事になりました。
阿部家の当主は老中を多数輩出し、幕閣の中枢に居たので、江戸詰めで国元に戻る事も出来ず、藩政は疎かになり、国元では一揆が絶えなかった様ですね。
つづく