明けましておめでとうございます。
平成最後の初詣では奈良の“橿原神宮”に出かけました。
駐車場とか混雑度合いとかの消去法で決めた…訳ではなく、天皇と元号が交代する今年、初代天皇を祀る神社に詣でて一年の家内安全を祈願して来ました(^^;


さて、昨年末から続けてる“瀬戸内の百名城めぐり”、2日目に入ったその4は、岡山城です。
前日の夜に赤穂から岡山へ移動し、お城に近いホテルにチェックインしたのは8時になっていました。

ホテルに入り部屋のカーテンを開けると、この夜景でした。
日本100名城 №70 岡山城 岡山県 登城日:2018.12.18

別名 烏城、金烏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型4重6階(1597)RC造外観復元(1966)
築城主 上神高直?
築城年 1346年- 1369年(正平年間)
主な改修者 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓、石垣、堀
指定文化財 重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡(再建造物天守・門・塀)
所在地 岡山市北区丸の内2丁目3-1
岡山城の最初は南北朝期の正平年間に、伯耆国の土豪:名和氏の一族の上神高直がこの地に城砦を築いたのが始まりと言われています。
戦国時代には松田氏の家臣:金光氏がそれを居城としていましたが、戦国末期の元亀元年(1570)に西備前で勢力を伸ばしていた宇喜多直家が金光宗高を騙し討ちにして奪取すると、直家はこの城を拠点に備前、美作を統一して行きます。

一夜明けた窓からの眺め 後楽園越しに天守がよく見えます

岡山城のスタートは、駐車場が少ない城下ではなく後楽園から入ります 朝8時、3番目の入場でした

当然ですが、ここからは泊まったホテルもよく見えます

徒歩通勤のサラリーマンの波に混じって歩き、モロ観光客スタイルで後楽園に入って行きます(^-^;
直家と宗高はともに浦上氏の被官でしたが、岡山の地を新たな城下として欲しくて堪らなかった直家は、宗高が毛利と通じてる旨の偽情報を流し、自害へと追い込むと、子等を騙してまんまと乗っ取りました。
相変わらず…悪いやっちゃ!?

直家は岡山城の西ノ丸にあたる“石山”に本丸を据えると、“石山城”と名付け、その南側一帯に城下町を建設して“戦国大名”として自立しました。
その後の直家は毛利と織田の間を上手く泳ぐ事で家の存続を画策しますが、天正7年(1579)に織田軍(羽柴秀吉)が攻め寄せると、観念して織田家への臣従を決め、秀吉の傘下に入ります。
2年後の天正9年末、直家は石山城で病死します。
宇喜多家は秀吉の尽力もあって所領を安堵され、家督は嫡子の八郎(秀家)が継ぎますが、まだ9歳だった為に秀吉の元で育てられ、宇喜多家は叔父の忠家が代行して治めた様です。
*秀家の生母“ふく”はまだ32歳で、相当な美女だったため秀吉は側室になる条件で秀家を庇護した…という説があります(秀吉と直家の通じる部分なので、たぶん史実)。

後楽園は大名庭園として“日本三名園”のひとつですが

同じ回遊式庭園ながら、兼六園、偕楽園とは趣の違う樹木の少ない開放的な庭園ですね

丹頂鶴が居ましたが、普通に職員さんと散歩しています(^-^;

時折ある丹頂鶴の三機編隊での展示飛行

大きく優雅な姿の鳥なので、見応えがあります
秀吉に寵愛された秀家は秀吉の猶子となり、養女となっていた前田利家の娘:豪姫を室とすると、豊臣一族の待遇を受け、57万石に加増されて豊臣政権を支える大大名になりました。
石山城が大規模に拡張整備されたのはこの時期で、秀吉の全面支援を受けて太守に相応しい城へと変貌を遂げます。
城の東の旭川沿いにあった小丘の“岡山”に新たに本丸を移すと、現在の姿の天守を上げ、西に向けて4重の堀を備えた巨大な城と城下町を整備し、城や町の名も“岡山”と改名しています。
秀吉が死に、徳川家康が天下の簒奪の意思を顕わにしても、秀家は豊臣家の一族としてブレる事なく振舞い、関ヶ原では西軍の主力として戦って敗れ、死は免れたものの、八丈島へ島流しとなります。

城の天守を借景にした庭園は彦根城の玄宮園と似てますね 天守の開門が9時なので、もう少しブラブラして行きます

奥の建物群は園内での藩主の居所です。後楽園の建物は空襲ですべて焼失しましたが、昭和42年までに全部復元されました

この辺りは池と建物と植栽が織りなす景観が絶妙で見事です

園内には馬場もあり、藩主はこの亭から藩士の流鏑馬を鑑賞したそうです

簾池軒は藩主:池田綱政が最も好んだ亭でした
改易された宇喜多家に替わって岡山城を得たのは、関ヶ原の勝敗を決定づけた小早川秀秋で、宇喜多氏旧領のうちて52万石での入封でした。
岡山に入った秀秋は、本丸の改築強化をする一方で、城下の西側に外堀となる二十日堀を開削し、西の敵に備える城=徳川の藩屏たる決意を示しますが、それが評価される間もなく、わずか在城2年で急死してしまいます。
秀秋には子が居なかったため小早川家は廃絶となり、岡山城は28万石の領地で家康の外孫でもあった池田忠継(輝政の三男)に与えられました。

良い時刻になったので庭園を旭川側に抜けると、間近に城の天守が見えます
個人的に天守は初期の逓減率の大きい望楼型が好きですが、この天守の造形は特に美しいと思います

月見橋を渡って岡山城本丸へ


下段の廊下門前に来ました。不等辺な天守台に建ち、不規則な屋根のラインが階を重ね吸収されてく様は、今は無き安土城や大坂城天守を彷彿とさせます でもこの距離が美しく感じる限界かな?

中段へと登って行く廊下門 櫓門で、櫓内は中段から本段へと登って行く廊下になってます

まず櫓門があって、内側に登り傾斜がある…。古い時代の門の形式ですね
池田忠継は姫路城で触れた様に17歳の若さで早世したので、跡は弟の忠雄が淡路洲本から移って31万5千石で継ぎました。
忠雄は城の改築強化に積極的で、櫓の増設や本丸を広げての御殿の増築、枡形門の増設等をしており、最終的な岡山城は忠雄の時に出来上がったと言われています。
また、徳川大阪城の普請には本丸大手の桜門のエリアを担当し、蛸石などの巨石を持ち込んで、堅牢な門を築造したのもこの忠雄です。
忠雄も31歳の若さで病死し(天然痘)、家督は嫡子の光仲が継ぎましたが、この時まだ3歳だったので“山陽の要地岡山は任せられない”との幕府裁定で、同族で従弟の池田光政が治める因幡鳥取藩との間で“国替え”が命ぜられました。

中段には表書院が建っていて、役所機能の場所でした。 この角度で見る天守は断面が長方形の短手になるのでスリムです

外からは2重でも、実際は3重の月見櫓 本丸唯一の現存櫓で、忠雄による建造ですから、400年の齢を重ねています

中段には園池もありますが、水はどうやって揚げてるのかな?

高石垣は手前が小早川時代、向こうが池田時代の作と思われます

秀秋の石垣から覗いてみます(^^;

本段へ登る不明門 普段は廊下門上から入るので、明けられる事は無かった門です
手前には下段から登って来る鉄門がありました
岡山に移って来た名君:光政以降、この池田家が明治まで岡山藩主で続きますが、岡山城は大きく改変される事なく維持されました。
ただ、光政の子:綱政が14年の歳月を掛けて旭川の中州に造営した大名庭園:後楽園は城の景観を大きく変えるとともに、城の防備にも寄与しているそうです。
明治維新に際し、藩主:茂政が徳川慶喜の弟(徳川斉昭9男)だった岡山藩では、難局を乗り切るために茂政が隠居し、連枝の鴨方藩から章政を養子に入れて藩主とし、早い段階で新政府側に与した為、戦災に遭う事はありませんでした。

本段です。 此処には天守と藩主が居住する奥御殿がありました。
左の白い建物は付け櫓の“塩蔵”という別建物ですが、天守には此処から出入りしました。 復元天守では石垣に出入り口を造っています


復元天守はビル建築なので、礎石は御殿跡に移動・復元保存されていました。携わった先人は“時期が来れば”と後世の人に再建判断を委ねた訳ですね。

天守に入ると、おっと!岡山城商店街だ!

おなじみ磯田さんもPRに一役買っていますが

2階からは展示コーナーになり、撮影禁止ですが、敢えて撮りたいモノもありません
安土、大坂に倣ってか藩主の御座所は有った様ですね

5重の堀に守られ、三重櫓9基をはじめ無数の櫓が立ち、本丸には5重6階の天守が建ち、全国でも有数の威容を誇った岡山城ですが、明治6年に廃城になると建物の解体や堀の埋め立ては瞬く間に進み、市街化の波に飲み込まれて昭和初年にはほぼ現状の“本丸を残すのみ”の状態になりました。
この時点で残っていた建物は天守と月見櫓、西之丸西手櫓、石山門を残すのみで、慌てた国はこれらを国宝に指定して文化財保護を図りますが、貴重な天守と石川門は戦争の空襲で焼失してしまいます。

一気に下段に降りて石垣を見て廻ります これは本段の高石垣で、小早川時代の作ですね 上の土塀は本来は多聞で、角には三階櫓が建っていました

自然石を使った野面の算木積みですが、やや孕んでいます

旭川沿いから直接本段に登る要害門 下にはもちろん櫓門がありました
この辺りは宇喜多時代の石垣だそうです

天守東の石垣も野面で趣があります


全国の主要な城址では、本丸+主要な郭は公園化されて遺されたのに、なぜ岡山は…という疑問が湧くのですが、我が故郷ながら岡山人の性格として『城や領主に対する愛着が無い』という一言に尽きると思います。
辛辣な言い方かも知れませんが、戦後の“城ブーム”に乗って再建された外観復元天守の建て方、使い方を見れば一目瞭然で、観光PRの為の“城の外観”が欲しかっただけなんですね。
その証拠に、コンクリ天守の寿命が尽きる今日でも“木造復元”という話は一切話題に登りません。
安土城と豊臣大坂城の天守を模したと言われ、規模も大きく、とても貴重な望楼型の美しい天守なだけに、残念でなりません。

つづく
次は時代を一気に遡り、飛鳥時代の城跡です