池田家は当主:光政がまだ7歳の幼齢で、姫路藩の大任は無理との幕府の判断により因幡鳥取へと転封になりました。
 
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天守の内部は当然木造です(^^; 柱や敷居には歴史を感じるのですが…
 
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床は和釘が使われてはいるものの、木肌が若くてアンティーク感が足りません
 
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松本城天守内部  やっぱり、鎧武者が座ってそうな凄味は松本城が上ですね
 
 
 この光政、鳥取藩主を16年勤めた後に備前岡山へと転封になり、通算65年もの長きにわたって藩主の座にありましたが、後世の評価では徳川光圀、保科正之と並んで“江戸の三賢候”と呼ばれるほど名君の誉れ高い大名になっています。
そのまま姫路城主であったならと妄想が膨らむ次第です(^-^;
 
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しかし破風を多用し、連結天守の姫路城は木組みの妙はシッカリ堪能できます
 
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者走りの壁面にはほぼ全面に槍や鉄砲のホルダーがあり、天守は武器庫として使用されていた事を物語っています
 
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層塔型にも見える姫路城は実は望楼型ですから、巨大な二本の通し柱を持っています。地階から5階梁まで達する25mの巨木は木曽から伐り出された檜です
 
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『東傾く姫路の城は 花のお江戸が恋しいか…』と詠われた天守、昭和の大修理の時点ではこの柱が天守の自重や石垣の陥没を受け35cmも変形していたそうです
そこで新材と交換しましたが、木曽から運ぶ途中に折れてしまい、仕方なく二分して途中で継いでいます(^^;

 
 
本多忠政の入封
 池田家に替わって姫路に入ったのは本多忠政で、伊勢桑名10万石から5万石加増されての転封でした。
 本政と言えばあの本多平八郎忠勝の嫡男ですから、池田輝政の後の西国監視には譜代のエースを起用して来た感じですね。
 さらに忠政の嫡男:忠刻には将軍:秀忠の長女:千姫(豊臣秀頼の室でしたが、大坂夏の陣で救出された)が再嫁していて、幕府からは“千姫化粧料10万石”が別途給されていて、忠政は実質25万石の大名でした。
 
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天守の巨大さもあり、実用されていた為か階段は広く、比較的緩やかですね
 
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階段の降り口にはぶ厚い板戸が付いていて、防戦・防火に一役買っています
 
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千鳥破風を支える大梁は立派な松です
 
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窓は高い位置にあるので、射撃用の足場が造り付け。 下段にも隠し狭間が並び二段攻撃が出来ます

 
 しかし、池田52万石の後の大名が半分の石高では心許ない気がします。 そこで幕府は本多家を軸に、それに与力する譜代大名を近辺に集めます。
明石城に10万石で小笠原忠真を、播磨竜野城には本多政朝(忠政の二男)が5万石で配されました。
 また福島正則の改易で遺領の備後福山には、武闘派譜代で知られた水野勝成が入り、徳川家に近い池田家を含め、強力なネットワークが構築された訳です。
*忠刻と千姫の長女:勝姫はのちに池田光政に嫁ぎます
 
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また外に出てきました
 
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天守の南側は備前丸と呼ばれた本丸曲輪で、池田時代の御殿跡でした。 狭いのでコンパクトな御殿だったのでしょうが、かえって戦国武将:池田輝政を感じさせますね
 
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備前門から上山里曲輪へと降りて行きます
 
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“りの門”は秀吉の姫路城の遺構をそのまま流用したものと伝わります
 
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その手前にある埋門は帯郭(腹切り丸)へと繋がる門ですが、有事には瓦礫で埋めて通行不能にします
 
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二ノ丸からの下道で山里へ続く“ぬの門”城内最大の二重櫓を載せた門で、迷路的な上道に対し正攻法での防備を固めたのが下道、こちらが大手道という事ですね
 
 
 
忠政の姫路城拡充
 財力にゆとりのあった忠政は、姫路に着任すると直ちにまだ戦時特化の殺風景な城だった姫路城の拡充に着手しました。
 まず平坦な曲輪に過ぎなかった西ノ丸に櫓群を整備して、御殿を造営するとそこに移り住み、次いで中曲輪には家臣屋敷を整備して行きます。
 池田時代は城内に常住する家臣は500名ほどだったそうですが、本多時代には4千名が住んでいたそうですから、ほぼ全家臣ですね。
 
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前回登場の絵看板
 
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蔵書のCGではより細かい作事の様子が判ります
 
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天守から見た西ノ丸 忠政が最初に手掛けた作事です 備前丸は天守が崩落して来る危険性があった?
 
 
 最後に、三ノ丸には“本城”と呼ばれる政務の中枢となる御殿や忠刻・千姫の武蔵野御殿、将軍を迎える前提の向御屋敷などが造営され、巨城:姫路城は完成しました。
 
 姫路城は、難攻不落の城を縄張りし築城した池田輝政、その城に今日世界遺産になるまでの作事を加えて完成させた本多忠政という功績の分け方ができるかも知れませんね。
 
 
 
姫路城での千姫
 千姫は先にも触れましたが、徳川秀忠とお江(浅井長政とお市の三女)の長女で、7歳の時に豊臣秀頼の元に嫁入りし、19歳の慶長20年(1615)、大坂城落城時に豊臣家から戻される形で救出されました。
 
 秀頼との仲は良かったと言われますが、二人の間に子は出来ませんでした。
しかし、秀頼と側室との間に出来た姫が処刑されそうになると、身体を張って助命したと言いますから、本当に想いは有ったのでしょうね。
 
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千姫に所縁の深い西ノ丸に入ります
一番手前の二階櫓が“化粧櫓”で、西ノ丸の作事は千姫の化粧料で造営されましたが…
 
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千姫自身も西ノ丸の御殿を居所とし、毎日化粧櫓に登っては男山の八幡宮を遥拝するのが日課でした
 
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西ノ丸は外側をグルリと多聞櫓が囲いますが、内側にも武者走りを備え…
 
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外側は多聞の外側に通路と土塀があります
 
 
 そんな千姫も、翌年には本多忠刻と再婚します。
なんでも、大坂から江戸に戻る千姫を、忠刻が桑名の渡しで警護した際に、千姫が忠刻を見初めたのが始まりだそうですから、武士の娘は強いのです(^-^;
 
 二人はどう見ても格差婚の様に感じるのですが、血筋で見ると忠刻の母:熊姫は徳川信康と徳姫(織田信長の長女)の子ですから、これも凄い血統です。
 ともに織田の血が入っているからか、美男美女のカップルだった様ですね(^^♪
 
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多聞櫓内は広い廊下と収納の小部屋が延々と続き
 
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多目的に使われた様ですが…
 
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化粧櫓の一階は女中の居室(長局)になっており
 
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二階は畳敷きの御座所になっていました 千姫、居ましたよ。
どうやら千姫の為の特別な建物だった様ですね
 
 
 元和31617年)、姫路に移った千姫はまず私財で北西の男山山麓に天満宮を造営しました。
の嫁ぎ先の命運を踏まえ、本多家の千代の繁栄を祈念しての事だったそうです。
 
 翌年、さっそく子宝に恵まれ長女の勝姫が誕生し、次の年には嫡子:幸千代が生まれ、この再婚は成就したかに見えました。
 しかし、幸千代が3歳で早世すると、5年後には夫の忠刻が藩主に就く事なく急死し、姑の熊姫、母の江も相次いでこの世を去りました。
 
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千姫と忠刻の画像 不鮮明ですが、忠刻はイケメンですね(^^♪
 
 
 失意のうちに勝姫を連れ本多家を去った千姫は江戸に戻り、出家して江戸城竹橋門外の御用屋敷で暮らし、勝姫が池田家に嫁ぐと独り暮らしになりましたが、その後も徳川一門の世話をしながら70歳で天寿を全うしています。
 
 
 
その後の姫路城主
 忠刻の死で忠政の後の家督は二男の政朝が継ぎますが、政朝も若くして病に倒れ、跡は従弟の正勝となります。
しかし、正勝も若年だったため、本多家と言えども姫路の藩主は無理となり、すぐに大和郡山藩に移封となりました。 
 
 次には家康の外孫でもある松平(奥平)家の忠明が18万石で入り、子の忠弘まで30年勤めましたが、忠弘は出羽山形へ転封します。 以後
 松平(越前)家    2代    2
 榊原家         3代   18
 松平(越前)家   1代   15
 本多家         2代      22
 榊原家         4代      37
   松平(越前)家    2代      8
 
と、親藩と主要譜代が目まぐるしく継いで行きますが、いずれも石高は15万石であり、身に余る姫路城の維持管理は相当に藩財政の負担になった様で、家の名誉とはうらはらに、各家とも大きな借財を抱える事になっています。
移封の沙汰を聞いた時は、正直ホッとしたかも知れませんね。
 
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姫路城の石垣には産地が近いため火成岩でも表層でできる柔らかい石が主に使われており、補修は必須で孕み補修の為の巻き石垣も見られます
 
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石垣修理の際に取り出され交換された石棺 巨城ゆえに使う石の量も半端なく、古墳からも集められたんですね
 
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隙間に打ち込まれた石臼の破片“姥ヶ石”
これは積み石の代用ではなく、“老婆”の石臼を使う事で石垣が“孕まない”という願掛けです
 
 最後の藩主になったのは酒井家で、この家は10120年間にわたり勤めます。
明治維新にあたり、藩主で老中の忠惇は鳥羽伏見の戦いで終始徳川慶喜と行動を共にしたため、姫路城は新政府軍に包囲されてしまいます。
 
 その主力は備前岡山藩主:池田茂政の兵で、茂政は威嚇に空砲を篭めた大砲を数発、姫路城に向け発射させますが、そのうちの1発は誤って実弾が装填されており、これが見事に外曲輪の城門に命中し破壊してしまいました。 やっちまったぜ!!
 
 藩主の留守を守っていた重臣たちは主戦・恭順で揺れていましたが、それを機に降伏開城を決断しました。
  思えば、池田輝政が心血を注いで築城した近世姫路城を史上で唯一攻撃し、廃城に追い込んだのが子孫の池田茂政だったという事は、なんとも皮肉です。
 
 
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姫路の銘菓といえば 塩味饅頭
 
 
 
つづく
 
 
次は赤穂城への初登城です