慌ただしい年の瀬を控えた先週、瀬戸内沿岸をグルっと廻って来ました。
表向きの目的は、奥さんの永年のリクエストだった“しまなみ海道”と“道後温泉”、“本場讃岐うどん”と“鳴門の渦潮”を満たす旅ですが、これに巧妙に“城歩き”を組み込みます(^-^;

とは言っても、本当に行きたいレアでディープな城では喧嘩の素、殆どが既登城ながら、日本百名城の12城を組み込みました。
(このブログでは初見参ですので…)
日本100名城 №58 明石城 兵庫県 登城日2018.12.17

別名 喜春城、錦江城
城郭構造 蓮梯郭混合式平山城
天守構造 天守台のみ
築城主 小笠原忠真
築城年 1618年(元和4年)
主な改修者 松平直常
主な城主 小笠原氏、松平氏(戸田)、大久保氏、松平氏(越前)
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、堀、移築門
指定文化財 国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)、国の史跡
所在地 兵庫県明石市明石公園1-27
明石城が築城されたのは大坂の陣(1615)で豊臣家が滅亡した3年後の事で、徳川幕藩体制が定着した後の、比較的新しい城です。
直前に幕府からは一国一城令が発布されていて、3千近い城が次々に廃城・破却される中、それらの廃材を用いて築城された城だそうです。


ただ、スポーツ施設が沢山造られ、城址保存されてるのは本丸エリアだけですけど…



戦国末期、この地域は三木城:別所氏の領地で、明石城の西1kmほどの所に船上城というのがあり、別所氏の後の高山右近も居城にし、姫路に入った池田輝政も支城として船上城を使っていましたが、西国の外様大名の抑えとしてより堅固な城をとの幕府の方針により、新築城となりました。
頼りにしていた池田輝政の死と、池田家の中国への移封、本多忠政の姫路への配置とその与力となる譜代の追加…といった一連の動きでしょうか。






この明石城の城主として指名されたのは有力譜代大名の小笠原忠真で、父祖の地:信州松本からの加増移封でした。
ここで、甲斐源氏の名族で室町幕府で信濃守護を務めた小笠原氏がなぜ徳川譜代なのか、少し触れておきます。
武田信玄によって信濃を追われた小笠原長時は、上杉謙信の元に身を寄せていましたが、御館の乱の際に会津の蘆名氏の元へ逃避します。
武田氏が滅び、遺領の分捕り合戦(天正壬午の乱)が始まると、長時の子貞慶は徳川家康の元に駆け付け、助力を得て深志城を奪還しました。




日本中で現存する三重櫓は12基しかないそうで、そのうち2基がある事は明石城の一番の売りですね。


以後、貞慶は子の秀政とともに徳川麾下で歴戦に参加し、下総古河、信濃飯田と所領を得て、慶長18年(1613)には念願の信濃松本8万石の大名となりました。
秀政には家康の長男:信康の娘:登久姫が嫁ぎ、譜代大名となったのです。
秀政は嫡子:忠脩とともに大坂夏の陣に戦死しますが、跡を継いだ二男の忠真には2万石が加増され、新たな西国への抑えの拠点:明石城が任されたのです。

本丸には低いなが巨大な天守台があります。

作事はされなかったものの、150坪あると言われる天守台は五層天守が載るサイズで、10万石の石高も含め本気度は疑わしいですね。


本丸北側は多聞構造の高石垣が続きます

その向こうは桜堀と呼ばれる水堀が…


明石城を築城した小笠原忠真が明石を領したのは15年間で、さらに加増されて豊前小倉15万石に転封します。
その後には石高7万石で松平(戸田)氏、大久保忠職、松平(藤井)氏、本多忠利と目まぐるしく移り替わりますが、結城秀康の6男:直良の子:直明が1682年に入封すると、明治維新まで変わる事なく、松平(越前)ファミリーの一翼を担って行くのです。


山里丸跡は開発された住宅地で、遺構はありませんでした。




8代藩主の斉宣は11代将軍:家斉の25男で、明石藩も養子受け入れを強要された藩の一つだった様です。
徳川家門としてやむなく嫡子:壽太郎を廃嫡して斉宣を受け入れた明石藩でしたが、その事で2万石の加増を受け、間もなくして斉宣は病死した為に、壽太郎が9代藩主:慶憲となりました。


明治維新に際して、明石藩は佐幕派でしたが、藩論は割れ、鳥羽伏見の戦にも遅参したために、戦闘には加わっていません。
明石城に迫った官軍に対しては、本家筋の松平春嶽の執成しで開城降伏する事で戦災を避けられました。
つづく
次は最高にベタながら、姫路城を訪ねます。