福地氏城の次には伊賀盆地の東端を15kmほど南下して、百地丹波守城を訪ねます。

百地丹波守泰光は伊賀上忍三家のひとつで、主に伊賀南部に勢力を張った首領です。
講談や歴史小説では“百地三大夫”という名でお馴染みですが、実はこの三大夫という人は江戸時代の小説で初めて登場した架空の人物名です。
しかし、背景の設定は明らかに百地丹波守をモデルにしている様ですね。
そこで、百地丹波守泰光の人物像に迫ってみる訳ですが、これがまた詳細な資料はなく、伝承を元にした説が入り乱れていて、謎の人なのです。
伊賀の城 百地丹波守城 登城日:2018.10.3

城郭構造 丘城、城館
築城年 天正4年(1576)頃
築城主 百地丹波守泰光
主な城主 百地氏
廃城年 天正9年(1581)
遺構 主郭、土塁、空堀、水堀
指定文化財 なし
所在地 三重県伊賀市喰代
百地氏に限らず伊賀の忍軍は諜報が主要な仕事ですから、首領から末端の者まで個人像は極力明らかにしていません。
家誌としての記録はおろか、家系図も取り交わす文書なども一切残らず、当事者の口伝えのみが歴史を知る唯一の手掛かりなのです。
闇に生き闇に死ぬ…そしてなお“死して屍拾う者なし”の世界ですから。

木津川支流の服部川を渡り、喰代の里へと向かいます

途中の集落にある大きな屋敷 近鉄特急に乗ると気付くと思いますが、伊賀では集落の中に必ず一軒の大きなお屋敷があります

百地丹波守城の縄張り図 舌城台地の先端に造られた丘城ですが、複数の郭から成る城域に百地氏の勢いを感じますね
百地氏は伊賀南部の伊賀郡中村(現在の名張市美旗)の土豪でしたが、その出自は何代か前の服部家からの分家であった様です。
その百地氏が天正4年(1576)頃、山田郡喰代に移って築いたのが今回訪ねた百地丹波守城だと言われています。

城の玄関となる永保寺

この境内は城の出丸だった場所で、石垣は後世の普請と思われますが…

土塁と空堀の形状がそのまま残っています

寺の背後の小山も含め、大きな出丸だった様です 現在は石仏だらけの山でした
百地丹波守泰光の頃、百地家の居城は伊賀でも南端の竜口だった様で、伊賀上忍三家の実力者ですから、この移動の理由もまた謎です。
その竜口には現在も直系の子孫がお住まいですから、決して追われた訳ではない様です。
少し前、泰光は南都(吉野?)北面の武士として赴任していた説もありますから、帰任後の勢力拡大と見るのが妥当でしょうか?

出丸の山の尾根の延長にあった“式部の墓” 伝承によると、吉野で丹波守泰光と恋仲になった女官が、泰光の帰任後に後を慕って訪ねて来たところ、泰光の妻によって城内の井戸に投げ込まれて殺されました。
泰光はその井戸を埋め、塚を作って式部の霊を弔ったのだそうです(^-^;

大手虎口と思われる南側の谷

右手は広い空堀になり…

左手は水堀が満々と水を貯えています

水堀の上にある星雲寺の敷地は“居館跡”だった様です

境内には百地家の墓所もありますが、江戸時代以降のものか?
百地丹波守城を築城して3年後、伊勢を平定して領主となっていた北畠(織田)信雄が1万2千の兵で伊賀に侵攻して来ます。第一次天正伊賀の乱と呼ばれる戦いです。
主力の8千を率いた信雄は長野峠から、家老:秋山右近は1千3百で青山峠から越境し、比自岐の丸山に集結して築城を始めます(丸山城)。
伊賀の忍軍達は丸山を遠巻きに対峙しますが、これとは別に信雄重臣の柘植三郎保重が1千5百を率いて鬼瘤峠を越えて背後を衝きました。

空堀側に奥へ入って行くと、主郭の虎口が現れます

入口から主郭面まで約5m、その上に2~5mの土塁が巻いています 伊賀に多い切り込み土塁の構造ですね

主郭西側の測量図 東から西へ流れる斜面を削って平坦地を作り、削った土を周囲に積み上げて土塁としている事が判ります

郭内は40×30mほどの広さで、建物の土壇が2基あります
鬼瘤峠を下った場所が喰代(ほうじろ)であり、百地丹波守は地域の豪族を引き連れ鬼瘤峠に布陣して、これを迎え撃った様です。
鬼瘤峠は現在の青山高原にあたり、灌木の森と熊笹が生い茂るゲリラ戦にはうってつけの場所です。
果たして、得意の神出鬼没の山岳戦が展開され、柘植保重、日置大膳など北畠勢の名だたる武将が討死にして、伊賀忍軍の一方的な勝利でした。

主郭の東側は20×30mほどの広さで、北と東に向けた虎口も開いているから、武者溜まりの機能だった?

この郭の土塁は削っただけの切り込み土塁です

東向きの虎口から覗くと、空堀を挟んで二ノ郭があります。 二ノ郭の東側にはさしたる遺構が認められず、これでは守れないので、この城はまだ築城途上の城で、信長の侵攻に際しては仕方なく放棄した…気がします

郭内の切り株にあった天然の“ナラタケ?” 自信が無いので収穫はしませんでした(^-^;
この結果で、すでに伊賀に入っている北畠勢の動揺は激しく、各地で神出鬼没のゲリラ戦に連戦連敗した信雄は、2千以上の犠牲を出し這う這うの体で伊勢へ逃げ帰り、伊賀忍軍は伊賀を守り切りました。
しかし、この敗報に激怒した信長は、信雄を激しく叱責すると同時に、本格的な伊賀侵攻を決心します。

星雲寺に戻って、お寺と墓地の間の堀底道を降りて行きます。 人口の掘削痕なので、隠し通路みたいな忍軍特有の仕掛けがあったのかな?

北側からの城址遠景 水田が堀の役割を果たしています
用意周到に戦環境を整えた信長は、2年後の天正9年(1581)9月、5万もの兵を動員して6ヶ所の峠を越え一気に伊賀になだれ込みました(第二次天正伊賀の乱)。
この時点では伊賀の忍軍を一手に指揮していた百地丹波守は、伊賀国内の幾つかの主要な城での籠城戦を決意し、居城の百地丹波守城には自ら火を掛け、決戦場へと発って行ったそうです。
これで築城から僅か5年を以って百地丹波守城は廃城となりました。
