農作業が一段落したので、秋の城巡りを始めました。
季節は山城シーズンに入って行くので、今季は伊賀の城を重点的に攻めてみようかと思っています。

伊賀の上忍三家と主な中忍の分布 まだ製作途上です
戦国時代の伊賀国はご存知の通り、在地の小豪族が乱立していた土地です。
各村々には村を治める豪族が居て、抗争と連携を繰り返していた訳ですが、それぞれ家ごとに居館を土塁で囲った小規模な城を構えていました。
それゆえ、城の名前も土地よりも家の名前が城名として呼ばれるのが一般的なのです。
石高を全部合わせても10万石余りの伊賀国に、そうした城館は500もあったそうです(三重県全体で988)から、その乱立具合の凄さが判りますね。

違う豪族の小規模城郭がこんな密度で存在したのが伊賀国の大きな特徴です
伊賀の城 福地氏城 登城日:2018.10.3

城郭構造 丘城、城館
築城主 福地氏
主な改修者 福地宗隆(福地伊予)
主な城主 福地氏、池尻氏
廃城年 天正10年6月(1582年6月)
遺構 主郭、土塁、石塁、空堀、石組井戸、ほか
指定文化財 県史跡
所在地 三重県伊賀市柘植字浦出
伊賀の在地豪族は戦国期以降、“忍者”として活躍した事はあまりにも有名ですが、小規模豪族の集合体ゆえ、近隣の武将の侵攻には豪族達が結集して、奇襲や攪乱などの“ゲリラ戦法”で対抗せざるを得なかった…戦力的な背景が根底にあります。
そうした戦い方は、山がちな地理的条件を最大限に活用して野山を駆け回る“サバイバル技術”の発達に繋がります。

福地氏城の入り口になる萬壽寺参道

右手の道を登って行くと堀底道の様相です 左側がお寺で右手は数軒の集落 たぶん家臣屋敷か?

萬壽寺は曹洞宗の古寺で福地一族の菩提寺です

戦国の世が進み大名同士の大規模な戦いが主流になると、情報の収集と伝達、偽情報での後方攪乱などのスパイ戦術が重視される様になり、そうした技能に長けた伊賀の豪族は各地の大名に請われての期間契約でスパイ活動に従事したのです。

福地氏城縄張り 千石の豪族にしては多数の郭を配し、本格的な構えですね

城址遠景

農道の突き当りの登城口

伊賀の忍者は上忍・中忍・下忍の三階層に分かれていたと言われます。
上忍とは伊賀の豪族を忍軍としてまとめ、各大名に売り込む“派遣会社の社長”であり、伊賀では服部家・藤林家・百地家の三家が上忍でした。
中忍は派遣する者を出す小豪族の長がこれにあたり、現場での監督責任も負いました。
下忍は実際に出稼ぎして諜報活動にあたる尖兵であり、小豪族の子弟や家臣が主であった様です。

主郭の大手口には野面の石垣が多用され、石も大きく、力の入った構造です


虎口の石垣で土塁の断面が判りますが、幅の広い土塁です

今回訪ねた福地氏城跡は、阿拝郡柘植地区4村に3家あった豪族のひとり、福地氏の城館で、所領の石高は千石あまり…の豪族でした。
天正九年(1579)の織田信長の伊賀侵攻では、柘植を管轄する上忍は北伊賀湯舟の藤林長門守正保と思われますが、正保は配下の甲賀忍軍とともに寝返って、織田軍の先導役を務めます。
正保に呼応したのかどうか不明ですが、福地氏の福地伊予守宗隆も織田陣に駆け込んで内通し、伊勢の加太口から滝川一益軍を呼び込みます。
これにより伊賀の忍軍は壊滅して大半が討死にし、生き残った者も帰農を強いられてしまいました。

主郭の郭内には芭蕉翁生誕地の碑が

主郭は50m四方ほどの広さですが、常の居館跡は外にあるので、さしたる建物は無かった筈

それでも土塁上への雁木は石積みが為されているのが、俄か築城の城でない事を物語っています

木々に覆われた郭内は一面苔に覆われていました
福地氏は、内通の功で領地を安堵され、新たな領主:滝川雄利の配下となりましたが、“裏切り者”として土豪の残党から常に狙われる羽目となり、本能寺の変の折に駿河へ出奔したと言います。
これにより福地氏城は廃城になった模様です。


利一の母は柘植出身の人で、父が鉄道技師で各地を転々とした為、母や兄弟と小学校の大半と中学(旧制)の3年間を伊賀で暮らしました

さて冒頭のタイトル、松尾芭蕉と福地氏との繋がりです。
松尾氏は福地氏の支族だそうで、天正伊賀の乱の参戦豪族の一覧にも確かに松尾氏の名前があります。
宗家の福地氏は裏切って駿河へ逃げましたが、分家の松尾氏はそれに加担せずに、敗れて帰農したのか?
確かな事は言えませんが、芭蕉の母は百地丹波の娘だそうですし、芭蕉の姉も竹島氏に嫁いでいますから、残党同士の輪という意味では、その線で正解でしょう。
*芭蕉の奥の細道紀行に幕府隠密説が付き纏うのも、この血統なるが故ですね

萬壽寺には松尾家累代の墓所もありました

その隣には芭蕉を植えた花壇が… こんな句詠んでましたっけ?
芭蕉の命名の由来がこの花壇とは思いませんが、晩年の芭蕉はたびたび伊賀に里帰りし、京阪での活動の拠点にしていますから、先祖の墓参に訪れて詠んだのかも知れませんね

お寺と集落の間を戻って行きます。
この集落は福地氏主従の末裔の可能性がありますから、かつて松尾与左衛門の館もここに有り、芭蕉が生まれた真の生誕地なのかも知れませんね

では、福地氏城址に生誕碑がある様に、芭蕉が生まれた江戸初期に松尾氏が福地氏の城地を受け継いで住んでいたかどうか…についてはかなり眉唾です。
名字帯刀は許されていたものの、身分は百姓の松尾与左衛門(父)が城館を維持するのはたぶん無理だったと思います。
事実、与左衛門は早い段階で柘植の田畑を棄て、上野の城下に出て藤堂家の重臣に仕えていますが、仕事は厨房の料理人だったと言われます。
また、芭蕉(本名は宗房)の幼名が“金作”というのも、その内情を現わしている気がしますね。